旅行から帰った翌日、光の携帯にメールを送った。返事はない。
 その翌日、店の前まで来た。バーは閉じていた。
 旅行の疲れが出ているのかもしれない、別れ際も少しぼんやりとしていたし、そう思いバーを後にする。
 さらに翌日、ひかりに連絡を取る。彼女も兄に連絡を取ろうとしたが返信がないと言っていた。学校帰りに部屋の方へ行くと言うのでついて行くことにした。

「兄さんのことだから、疲れてお店開けるほど元気ないだけだとは思うんだけど…」

 部屋の前で呟きながらひかりが鍵を開く。部屋を見ても驚かないでね、と言われ首を捻る。

「兄さん? いる?」

 先に部屋に入った彼女に続いて足を踏み入れて、絶句した。
 狭い部屋に本棚とベッドしかない。窓があると思しき場所は本棚で埋められていた。その本棚から溢れた本が床を埋めている。
 旅行のお土産は玄関脇に置かれたままだった。

「エメトセルクさんっ!」

 ひかりの声にはっと顔を上げてそちらへ向かう。

「兄さん、凄い熱が」

 ベッドの上で小さく丸くなるその姿に、思わず手を伸ばす。首元が焼けるように熱い。

「体温計は」

 私の問いかけにひかりは押し入れの中の衣装ケースを漁る。生活用品と衣類はそこに仕舞われているようだった。
 渡された体温計を受け取り、その体を横抱きにする。脇の下に体温計を入れ込んで1分待てば電子音が狭い部屋に響く。

「うそ」

 抜き取った体温計は39度を示していた。

「ひかりちゃん、タオルと袋に氷を」
「はい」

 とにかくこのまま寝かせていても仕方がない。いったん目覚めさせなければ医者に連れて行くこともできない。
 別れた時と同じ姿のまま、眉間にシワを寄せてただ熱い息を吐き続ける光を見つめる。

「ありがとう」

 差し出された氷をタオルで包んで首の後ろにあてる。冷気が感じられたのか徐々に強張っていた体が弛緩していく。

「ひかりちゃん、光に持病とかは?」
「えと、目の事以外は、多分ないと思います」
「そうか」

 なら、本人の意識が戻り次第どこでもいいから医者に連れていけば問題はなさそうだ。

「……っう…」

 腕の中で身動いだ光の目がゆっくりと開く。熱に浮かされ視点の合わない瞳がゆらゆらと揺れて、こちらを見つめてから、暴れ出した。

「光!?」
「兄さん!?」

 手をいっぱいに伸ばして拒絶するその口から、呻くような声が上がる。

「ーーっ、やめて、母さん、やめて…」

 何度か譫言のように繰り返してから気絶するように眠り込んでしまう。

「寝ぼけたか…もう少し待たないと…ひかりちゃん?」

 傍らに立ち竦んでいたひかりがびくりと震えた。兄妹のその様子に、流石の私でも何かあったのであろうことぐらいはわかる。

「ひかりちゃん、大丈夫、落ち着いて」
「ー…っ、はい」

 何度か深呼吸してから、ひかりは強い意志を持つ瞳で光を見た。この子は、強い。

「兄さんの鞄の中に、診察券ないか探します」
「頼む」

 ゆっくりと光をベッドの上に横たわらせ、首の後ろの氷を頭の上に移動してから私も部屋の中を見回す。
 ベッドと、本棚。押し入れの中に衣装ケース。他には何もない。生活感が、ない。
 玄関からお土産と光の鞄を持ってきたひかりは、その鞄の中を漁っている。
 立ち上がって小さなキッチンを見る。冷蔵庫を開けるが、スポーツドリンクしか入ってない。おそらくほぼ水分をとっていないはずなのでこれはありがたい。

「ありました、保険証と診察券」

 ひかりの声に、冷蔵庫からスポーツドリンクをとって向き直る。診察券に書かれた病院の名前と住所を見る。バーと私の家の間にある個人医院のようだ。

「あぁ、ここならわかる」
「よかった」

 光を見ると、寝返りを打ったその頭から氷が落ちていた。こちらに背中を向けているなら、と冷えたスポーツドリンクをその首元に当てて氷をおでこに沿わせる。

「…とはいえ、ここじゃ治るものも治らんな…」

 何もなさすぎるのである。旅行帰りということを差し引いても。

「ひかりちゃん、君が彼の家族だから聞くんだが…」

 ひかりは私の顔を見ている。見定めようとしている。あぁ、そんなところは兄妹なんだな、と脳の片隅でぼんやりと考える。

「光の意識が戻ったらうちに連れてっても大丈夫か?」

 本当は今すぐにでも連れて帰って看病したい。暖房器具すらないこの場所では、治るものも治らない。

「…大丈夫、です。少なくとも、ここにいるよりはマシだと思います」

 彼女自身も同じ思いになったのか強く頷いた。

「実家には、戻りたがらないと思うので、お願いします」

 逆に頭を下げられてしまった。

「わかった…とりあえず3日分程度の着替えをダッフルバックに…あぁ、中身は旅行の時のままだろうから中身出して、詰めてもらってもかまわないかな?」
「はい」

 一度こうと決めた女性は強いし早い。旅行鞄の中から荷物を出し去り、そこへ着替えを詰めていく。
 光の首元が冷えすぎないようにスポーツドリンクを取り去ってそこへ触れる。ひやりとした表面温度の後にじわりと熱が襲ってくる。この程度で引いてくれるとは思わなかったがこれは手強そうだ。

「詰めました」
「ありがとう……ひかりちゃんは、家に帰りなさい」
「っでも!」

 おそらくそのままついてこようとするだろう少女を制する。

「君は未成年だ。遅い時間に連れまわしたとなれば状況が状況でも弁護はできない。それに、今ここで家に断りもなく外泊する方が、光の立場を悪くしてしまうんじゃないか?」

 先ほどの2人の様子や、先日のバーでの件からなにかがあったのだろうということは察している。

「…っそうですね、すみません」
「いや、ひかりちゃんの気持ちもわかるからね…すまない」
「いえ…連絡だけ、もらってもいいですか?」
「もちろん」

 ひかりはベッドに眠る光を見つめて悲しそうな瞳をした。

「すみません…兄を、お願いします」

 ぺこりと頭を下げる彼女に私は強く頷いた。

 2人きりの部屋には物音すら響かない。熱く短い呼吸音だけが部屋を揺らしている。
 ベッドの縁に腰掛けて、その苦しげな寝顔を見る。普段の柔和な彼からは想像もつかないほどの眉間のシワの寄りに思わず手を伸ばす。指先で何度か押してやると、ふっと力が抜けると同時に、光の手が私の手を掴んだ。確かめるように何度か握り込まれてから、光の瞳がゆっくりと開く。
 また拒絶されるだろうか、そう思い身を硬らせるが、光はそのまま私の手を頬に寄せてきた。確かめるように頬を摺り寄せる様にぐらぐらと心が揺れる。

「…光」

 出来る限りゆっくりと、名前を呼んでやる。頬を摺り寄せていた光が私の手を少し離してじっと見つめている。

「光」

 もう一度、名前を呼んでみる。
 まだ熱で揺れる視線が彷徨うように私の腕を伝ってこちらを見る。
 起き上がろうとする体を、手で制して仰向けにさせる。ずれた氷枕…すでに水枕になっているが…を今一度額に乗せる。

「熱があるのが、わかるか」

 ひゅっと光の喉が鳴る。ほぼ水分もとらずずっと眠っていただろう喉は枯れてからからと音を立てる。

「喋らなくていい」

 まずは水分補給をさせねば、私はぬるくなっているスポーツドリンクのペットボトルの蓋を開ける。

「起こすぞ」

 背中の下に手を入れてゆっくりと起き上がらせてその腰を支えるように膝を入れ込む。片手で背中を支えたままスポーツドリンクを差し出す。

「まず、飲みなさい」

 震える手がペットボトルをそっと掴んだ。落としそうだな、そう思いその手を支えるように手を重ねる。ゆっくりと、その口にスポーツドリンクが流し込まれていく。

「ゆっくり飲みなさい。むせるぞ」

 少し飲んでは手を止めて嚥下しきるのを待つ。何度か繰り返して三分の一ほど飲ませる。
ペットボトルの蓋を閉めてから、その額に手を当てる。まだずいぶんと熱い。

「……どうし、て」

 掠れた小さな声がまだ乾いた喉を震わせた。首の後ろに手を差し入れてその熱を測りながら私は告げる。

「バーが開いてなくて、連絡が取れなかったから」

 簡潔に、出来る限り考えさせないように、言葉を伝える。熱のある人間にあれこれと理由を言ってもその大半は覚えていられない。

「さっきまでひかりちゃんもいた」
「…あぁ…」

 どうして部屋にいるのか、という部分には納得がいったようでほっと息を吐く。
 とにかく遅くなる前にひかりを帰すべき、しか考えてなかったが、この状況は考えようによっては私が押し入ったことになってしまう。

「動けそうなら、医者に行こう」
「寝てれ、ば、なお」
「却下だ」

 言いきらせてなるものか。認められるはずもない。

「光、君は今から私と医者に行く。そのあと治るまではうちに来るんだ」
「…え」

 熱に浮かされてぼんやりとしていた瞳が私を見て見開く。次いで、その顔がさらに真っ赤になる。

「ひかりちゃんにも頼まれている」

 彼の弱みに付け込んでいるような形になるが、致し方ない。
 ぱくぱくと何かを告げようとした口が熱のこもったため息を吐き出す。

「…で、も、準備、なにも」
「ひかりちゃんに全部用意してもらっている」

 眉をしかめるその顔はほんの少しだけいつもの彼だった。すぐさま熱に浮かされた表情に戻ってしまうが、ほんの少しだけ安堵のため息を漏らす。

「色々言いたいことも聞きたいこともあるだろうが、まずは治してくれ」

 私の言葉に、光は観念したようにため息とともに小さく頷いた。

+++

 医者の見立ては過労と心因性による発熱であった。ウイルス性ではないという部分には胸を撫で下ろすが、心因性と言われて思い浮かぶのが直近の旅行なだけに、私はなんとも言えない表情を作ることしかできなかった。
 ふらふらとおぼつかない足取りの光を支えて、私の部屋のあるマンションまで来る。駅から15分、14階建てのデザイナーズマンションの14階に私の自宅兼オフィスはある。
 手早くカギを開けて光を部屋に招き入れる。玄関で固まる光に手を差し伸べれば、もそもそと靴を脱いでふらりふらりとその手が重なる。まだ、手は熱い。
 真っ直ぐに寝室へと案内する。黒を基調とした寝室をおずおずと光が覗き込む。

「……黒い」
「まず出てくる感想がそれなのもどうなんだね…」

 ポンポンと背中を押してベッドまで導く。
 海外製のキングサイズのベッドにしていたことが功を奏したというべきなのだろうか。その縁にちょこんと腰かけた光はさながらガリバー冒険記の小人のようにも見えた。

「荷物はここに置いておくぞ」

 枕元の床に彼のダッフルバックを置いて今一度その額に手を当てる。外を歩いてきたためか、ほんの少しだけ表面は冷えていたがまだ内部的には熱を放っている。
 サイドテーブルの上に処方された薬とドリンクを置いて、もたもたと上着を脱ぐ彼を手伝う。

「本当は風呂に入ったほうがいいんだろうが…今濡れタオルを持ってくるから待っていろ」
「え、あ」

 彼の上着をハンガーにかけてクローゼットにしまい込み洗面所へと向かう。
 蛇口をひねってお湯を出しながら清潔なタオルを取り出し濡らしていると、よたよたと彼がドア向こうから顔を出す。

「どうした」
「あの…お手洗い…」
「あぁ、すまない」

 廊下から顔を出して隣のドアを示してやれば、小さく頭を下げて彼が中へと消えていく。
 熱で潤んだ瞳を思い出しかけて、大きく息を吐く。
 彼は病人だ。しかも、おそらく原因は私。縋られて嬉しいとか思ってはいけない。私が追い込んでしまったも同然なのだから。
 トイレから出てくる気配を感じて濡らしていたタオルをきつく絞る。2本用意すれば何とかなるだろう。
 よたりよたりと歩くその背中を支えながら寝室へと戻る。ベッドの縁に座った彼の手に濡れタオルを一つ渡してもう一つをサイドテーブルの上に置く。

「とにかく、汗を拭いて着替えなさい。脱いだ服はこの籠へ」

 一緒に持ってきた洗濯用のランドリーバスケットを彼のダッフルバックの脇へと置く。

「私は向こうにいるから、拭き終わったら薬を飲んで寝てしまいなさい」

 食事を取らせるべきなのはわかっているが、途中で寄ったコンビニで食欲がないと宣言はされている。まずはひと眠りさせて、落ち着いてからゼリーでも食べさせたほうがいいだろうと判断して彼の頭を撫でる。

「…あの…」
「ん?」

 視線を合わせるようにしゃがんでやれば、光の瞳はそれよりも下を見つめるように俯いた。

「ごめんなさい…」

 苦しげに吐き出された言葉に胸を掻きむしりたくなる。

「まずは、体を治してくれ」

 私はそう告げて彼の頭を今一度撫でた。

 リビングで一通りの家の事を行い、ヒュトロダエウスとひかりに連絡を取る。ヒュトロダエウスからはからかうようなメールが、ひかりからは丁寧に兄をお願いしますとメールの返答が来る。小さく息を吐きだしてスマートフォンの画面をオフにする。
 部屋着の黒のスウェットに着替えてからそっと寝室を覗くと、大きなベッドの端っこで小さく丸くなって光は眠っていた。
 音を立てずに近づいてその額にかかる髪を横へと流す。額にそっと手を当ててまだ熱いことを確認する。すぅすぅと寝息を立てる様は彼の部屋で寝ていた時よりは穏やかだ。
 立ち上がり部屋の片隅に置いてある加湿器のスイッチを入れる。部屋の温度が下がりすぎないようにエアコンも動かしてから、間接照明代わりのフットランプをつけて部屋を後にした。
 リビングに戻って時間を確認すればすでに21時になろうとしていた。
 一息吐いてキッチンへ向かい冷蔵庫から缶ビールと乾きものを手にソファに深く腰掛けた。

 缶ビールを3本飲んだところで廊下からかたりと音がする。
 立ち上がってリビングのドアを開けると、ドアの前で驚いたようにこちらを見上げる光がいた。

「どうした?」

 少ししゃがんで視線を合わせてやれば、恥ずかしそうに目を背けてしまう。

「とりあえず、おいで」

 その手を取ってソファへ導けば、大人しくソファへと沈む。

「冷たいものでも飲むか?」

 問いかけに小さく頷くのを見届けてから、冷蔵庫へ向かう。作り置きしておいたハイビスカスティーとグラスを手にソファへ戻る。テーブルの上にそれを置いてからソファの背に掛けておいたひざ掛けを光の膝の上にかけてやる。
 隣に座ってお茶をよそい手渡せば、ぼんやりとした瞳が私を見た。

「…とにかくまず飲みなさい」

 おずおずとお茶を飲むその姿をじっと確認する。ちゃんとグラスを手で支えられているさまにほっと息を吐く。薬が効いているのかぼんやりとはしているが熱は抑えられているようだった。
 グラスのお茶を飲み切ったのを確認してから、その額に手を当てる。びくりと震える様にきちんと認識ができているようだと安堵してから、これに安堵していいものかと頭を抱えたくなる。額と首の後ろで体温を確認する。彼の部屋にいたときよりは熱の下がった様子に胸を撫で下ろした。

「うん、だいぶ下がってるようだな」

 口に出してやれば、光も安心したのかほぅと息を吐いた。
 膝掛けの上で彼の両手がきゅっと握られた。

「…あの」

 熱で頬を赤くしたまま、光は私を見上げてくる。
 首を傾げて次の言葉を待つ。

「…ごめんなさい」
「さっきも聞いたな」

 何に対してのごめんなさいなのかわからぬまま、もう一度光はごめんなさいと呟いた。

「私こそ、すまない」
「…え?」

 ぼんやりとこちらを見る瞳が2度瞬きをした。膝の上で握ったままの両手に私の手を重ねる。指先はまだ熱を持っていた。

「恐らく、私のせいで熱が上がったのだろう?」

 問いかけに強く首を振ってくらりと光がよろめく。熱があるのに無理はしないでほしい。

「僕が…僕が、悪いんです」

 俯いてしまったその肩が震えている。震えを止めたくてそっと肩を掴めば、びくりと体が跳ねた。
 旅行の終盤にはだいぶ触れることに慣れてくれたと思ったのだが、この3日間で振り出しに戻っている。当然か、と小さく笑ってからその肩から手を離す。

「光は何も悪くない」
「ちが、違うんです、僕が、僕が…悪いから」

 頑なに首を縦に振らない様子に、さすがに首を傾げる。震えは止まることなく、それどころかかたかたと音を発し始める。

「光」
「ごめん、ごめんなさい…ごめんなさい…」

 涙声のそれに耐えきれず、その体を抱きしめた。びくりと跳ねた体が硬くなる。

「光、落ち着いて」
「やっ、あっ、ごめ、ごめんなさ、ごめんなさいっ」

 腕の中から逃げようともがくその体を強く抱きしめる。繰り返される謝罪はもう私には向けられていない。

「ごめんなさい、母さん、ごめんなさいっ…」

 魘された子供のように何度も繰り返す言葉は徐々に小さくなっていく。顔を埋めた胸元が彼の涙で濡れる。
 その頭を何度も優しく撫でてやる。ここにいる私は君を害したいわけではないのだと、何度も何度も。

「っひ、うっ、ごめ、なさ、ぅく」

 とんとんとその背をゆっくりと叩いて呼吸の糸口を与えてやる。リズムに合わせるように次第に落ち着いていく呼吸を感じる。

「光」

 名を呼びながら体を離せば、涙をいっぱいに溜めた瞳が私を見た。

「光」

 もう一度呼びかけて、頭を撫でていた手でその頬を撫でる。彷徨うようにうろうろとしていた瞳が私を捉えて悲しげに歪んだ。

「私が見えるかい」

 低く問いかければ、迷うように瞳が揺らめいてこくりと頷いた。その拍子にまたぽろぽろと涙が溢れた。

「…触れるのは、怖いか?」

 怖くないと答えてほしい、あの時のように。

「怖いなら、もう触れない」

 そっと手を離して、掌を彼に見せる。
 あぁ、私の恋もここで玉砕かな。初恋は実らないとはよく言ったものだ。
 諦めに似た笑みが口元に浮かびかけたその時、私の手に光の手がぴとりと添わされた。
大きさを確かめるように合わせる熱が、あつい。

「光」
「…ハーデス、さん」

 やっと名前を呼んでくれたことに、ほっと息を吐く。諦めかけていた恋が何度も再燃する。

「…少し、怖いけど、ハーデス、さんだから、大丈夫、です」

 掠れた声で語尾を小さくしながら、光はゆっくりと言葉を紡いだ。その優しさに胸の奥が熱くなる。

「もう少し、触れていても」

 問いかければ光は私の手に沿わせた手を蠢かして指を絡めようとしてきた。なされるがままに指を絡める。光の手が熱い。また熱が上がってきているのかもしれない。
 寝室へ戻して寝かさなければ、そう思うのに触れ合う熱が心地良くて振り解けない。そこにいるという実感が私の胸をいっぱいにする。
 瞳を閉じて何度も指に力を入れていたその体から徐々に力が抜けていく。かくり、とその頭が倒れ落ちそうになるのを、腕を引っ張って止める。胸元で抱きとめれば、すぅすぅと寝息が聞こえ始める。
 ふっと苦笑してから絡めた指をそっと離して抱き上げる。軽い。いくら私より小さくても成人男性。本来はもっと重さがあって然るべきだろうに、軽すぎる。
 行儀は悪いが足でドアを開いて寝室へ入りベッドの上にそっと下ろす。
 足早にリビングへ戻りさっと片付けて電気を消して寝室へ戻る。
 眠るその顔を眺めながら彼の反対側へ周りベッドに横になる。
 寒くないようにと布団を肩口まで上げてぽんぽんと叩いてから、私も目を閉じた。

+++

あたたかい。さむくない。やさしいかおりがする。
 瞼にちらちらと飛び込んでくる光に眉をしかめるように布団の中へ潜り込む。
 大きな何かが僕に触れる。確かめるより先にそこに擦り寄る。
 あぁ、やさしいかおりはこれだ。
 小さく丸くなりながら擦り寄ったら、ふわふわと撫でられた気がした。
 あたたかい。さむくない。

 さむく、ない?

 ぼんやりと意識を覚醒させきれぬまま瞳を開く。
 暗い。暗くて黒い。まだ夜かな、そう思った僕の頭を撫でる感触がある。
 目の前に黒い壁がある。大きな壁。これはなんだろう。手を伸ばして触れて、それが衣服の一部と思い知る。
 衣服の一部?
 頭を撫でる感触が頬をくすぐる。そうだ、僕は知ってる。これは…。

「光」

 静かに呼ぶ声がする。何度も呼ばれた、声。
 ゆっくりと視線を上げて、黒い壁のさらに上からハーデスが覗き込んでいるのが見えた。

「…ハー…デス、さん…?」

 ふわりと微笑んだ彼の指が、額に触れて首の後ろに触れる。あたたかい、あたたかい。
 瞳を閉じてその指の動きを邪魔しないようにしていれば、また頭を撫でられる。
 あぁ、あたたかい。夢かな。これはきっと、夢かな。
 擦り寄っても怒られない。ふわりふわりといいかおりが鼻先を掠めていく。

「光、起きて」
「…や、だ…」

 もっとここにいたい。目覚めたくない。あの部屋は寒いから。

「大丈夫、ほら」

 大丈夫?

「んぅ……?」
「私はここにいるだろ?」

 ここに、い、

「あっ、わぁ!?」
「おっと」

 不意に起き上がった僕の瞳に、窓から差し込む朝日が飛び込んでくらりと倒れかける。
 大きな手が僕の体を今一度布団の中に入れ込んで壁になる。

「目は大丈夫か?」

 問いかけに何度か目を瞑ってからこくりと頷く。頭上から安堵のため息が下りてくる。

「よかった」

 ゆっくりと瞳を開いてそっと見上げれば、金糸雀色の瞳が優しく弧を描いた。

「おはよう」

 確かめるように頬を撫でられて顔が赤くなるのがわかる。

「おはよ、う、ございます…?」

 うっかり疑問形になった挨拶をくすりと笑みで受け止められる。

「薬を入れたおかげかだいぶ熱は下がってるようだが…」

 薬? 熱?
 ぱちぱちと瞬きをすると、彼の眉根にシワが寄る。

「…どこまで覚えている?」

 問いかけに首を捻る。
 旅行へ行って、帰ってきて、玄関でキスされ…て…
 徐々に赤くなる顔にハーデスが苦笑しながら頭を撫でてくれる。

「できれば、もう少し後のことを思い出して」

 もう少し、後。
 部屋に帰って、ベッドに横になって、そうだ、ハーデスの側にいちゃいけないって思って、それで。

「…それで?」

 体が熱くて、寒くて、怖くて、とにかく寝て、目覚めたくなくて…。

「うん」

 ふわふわしながら歩いて、黒い部屋に連れてかれて、起きたら誰もいなくて、泣いて、寝て。

「わかった、かなり断続的だな」

 …ん? わかった?
 ふに、とハーデスの指が僕の唇に触れる。

「全部、漏れてる」
「…漏れ、て…へ!?」

 ばっと自分の口を手で塞ぐ。くすくすと笑いながらその手が僕の手の甲越しに唇の辺りを撫でる。確かめるように触れた手が離れていく。

「少しだけ、布団の中に」

 ハーデスがそう告げて僕の視界を黒い布団で覆い隠す。立ち上がった彼が離れて、ジャッとなにかを擦り合わせる音をさせてから戻ってくる。ゆっくりと布団を持ち上げてその体が滑り込んでくる。

「もう明るすぎないと思うのだが」

 ゆっくりと視界を覆う布団を除かれてぱちぱちと瞬きをする。見上げればやはり優しく微笑む顔が僕を見ている。

「まずは水分を取って、それから私の話を聞いてくれるかな?」

 優しく告げられて、僕は頷くしかなかった。

 渡されたスポーツドリンクをすっかり飲み切った僕の背にクッションを入れ込んでもたれ掛けさせたハーデスは、ゆっくりとここまでの出来事を語ってくれた。

「ごめんなさい…」

 何から何まで世話になってしまい恐縮しきりで謝るしかない。
 彼はぽんぽんと僕の頭を撫でてから額に手を当ててきた。

「もう少し早く気づいてあげられればよかったんだが…」
「ハーデス、さんは、悪くないです」

 自己管理すら覚束ない自身を振り返って小さくなるしかない。情けない。

「あの、僕、帰ります」

 最後まで告げるより早く、ハーデスの手が僕の肩を掴んだ。

「帰すと思ったか?」

 ぐっと強く睨まれる。眉間のシワが濃くなっていく。あぁ、怒らせたり困らせたり、僕はそんなことしかできない。
 情けなさで視界が滲んでいく。
 ふぅとつめた息を吐き出して、ハーデスは肩を掴んだ手をするりと落として両手を握り込んだ。

「寒い部屋には、帰さない」

 彼と触れ合う手があたたかい。縋りたくなってしまう、いけないのに。

「迷惑、かけたく、ないから」
「いつ迷惑だと言った?」

 下を向いてしまった僕はそのまま瞳を閉じる。迷惑でしかないだろう、僕の存在など。ただの店員とお客さんでいられなくなった僕など。

「…光」

 思っていたよりも耳元で名前を呼ばれてびくりと跳ねてしまう。震えたり、跳ねたりそうやって怯えるたびにハーデスが困ったように眉を寄せるのを知っている。困らせたくなんて、ないのに。
 することなすこと裏目に出る環境に、自分自身に、泣きたくなる。

「ここに、いなさい」

 優しく落とされる言葉は暖かくて。
 好きだから、好きだからこそ、離れなきゃいけないのに。

「…やっぱり、こんなおじさんのことなんて嫌いかな」

 小さく呟いたハーデスが離れていく。
 嫌いと言って、離れてしまった方が、いい。今いっとき悲しいだけで、彼ならきっと前を向ける。
 そう思うのに。
 ハーデスの手が僕の顔を上向かせる。

「泣かないでくれ」

 彼の親指が僕の頬を撫でるたびに、涙が溢れる。止めたいのに、止まらない。

「君は、覚えてないかもしれないけど」

 ハーデスの顔が近い。金糸雀色の瞳がゆらゆらと揺れている。触れる手があたたかい。

「光、君が好きだよ」

 こつりと額と額があわさる。
 あたたかい、あたたかい、ここにいたい、ここにいてはいけない。
 告げられた言葉を何度も反芻する。僕が、好き?

「…誰、が?」

 口に出た疑問に、ハーデスの眉が歪む。あぁ、また困らせてしまった。

「私以外、誰がいる」

 ハーデス。ハーデスが、僕を、好き?
 わからない、わからない、なんで?
 彼の胸に手を置いてそっと押せば彼は逆らわずに離れた。その顔が悲しく歪んでいく。

「…好き?」

 それは僕に告げるべき言葉ではないのでは?
 ぞわりと背筋に寒気が走る。ひたひたと何かが足先から這い上がってくる感触がある。

「光が好きだよ」

 優しくて、低くて、僕の好きな声に、甲高い声が、重なる。
 耳を塞ぐ、頭を振る、聞きたくない。

「光?」

 呼ばれてる、誰に? あぁ、ハーデス、あなたにだけ呼ばれたいのに。
 あつい、からだが。思い出したくない、あの手を、あの声を、あの感触を。

『光、あなたが好きよ、だから、抱いて』

「や、だっ…やだっ、こない、で…!」
「光!?」
『光』

 声が被さる。這いずる女の声がする。こわい、こわい、こわい。
 手が触れる、撫でてくる、胸から下腹部へ、ねとりと刺激を与えながら。

「やだっ、やだ…母さん、やめて…ごめんなさい、やめて…っ!!」

 大きな手が僕を掴んで、何かに抱きしめられている。
 やめて、這いずり回らないで、こんなこと、したくない。

『光、綺麗で、汚い子』
「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ」
「落ち着け!」

 耳を塞いでいるのに、こびりつく声が何度も何度も僕を呼ぶ。かき消される。

「僕、僕、汚いから、ごめんなさいっ、お願い、やめて、母さん…っ!」

 抱きしめる腕が強くて、その中でもがいてるのに動けない。汚れてしまう。汚したくない。
 あたたかいのに、さむい。

『私の大好きな光、ほら、私の中で』
「やだ、したくないっ、母さん、やめてっ」
「光!」

 大きな手が僕の視界を塞いでいく。見えない、見えない、なにも。

「あっ、うあっ、あぁっ、ひっ」

 びくびくと震えることしかできない。声が何度も僕を呼んで、蹂躙していく。

「ふっ、うっ、やだ…母さん、やだ…っ」

 塞がれていない足でシーツを蹴っても、逃げることすらできない。
 離して欲しいのに離れていかないぬくもりに、諦めに似た気持ちが湧いてくる。
 そうだ、僕のことなんていつもお構いなしだったじゃないか。予告なく現れて、僕に跨って、僕を貪るものだったじゃないか。

「っぐ、ひぅっ、終わって…早く、終わって…」

 いつだって組み敷かれた僕は終わりを望むことしかできなかったじゃないか。

「光」

 低い声。塞いだ耳のすぐ横から聞こえる。
 甲高い嬌声はまだこびりついたまま響いている。今日は水音が聞こえない。

「光」

 もう一度呼ばれた。僕の、好きな音。
 この音だけ聞いていたいのに、こびりついた音が邪魔をする。下腹部への刺激とともに。
 刺激? 下腹部に? 触られて

「…っふ?」

 触られて、ない?
 あぁ、もう、なにも、考えたくない。あたたかくてさむい。暗くて、なにも見えない。
 見たくない。

+++

 プツリと糸が切れたかのように、光が意識を失う。抱きしめていた腕を解くと、くたりと私に寄りかかってくる。
 頬が熱い。泣いたせいか、高熱のせいか、判別はできない。
 ゆっくりと布団の上に横たえて肩元まで掛け布団をかけてやる。

《やだ、したくないっ、母さん、やめてっ》

 これがきっと、彼が前に進めない根本。熱に浮かされて出てきた、彼が隠したがっているもの。

(…まさか、な)

 湧いて浮かんだ疑問を打ち消すように頭を振る。そんなはずはないと思う一方で、疑惑だけが増えていく。
 疲れた顔をしている、その顔にかかる髪を払う。額を出させてから、サイドテーブルの上のビニール袋の中から冷却ジェルシートを取り出し、ぺたりと貼ってやる。
 その髪を撫でながら、性急にことを運びすぎた自分に反省する。結果として彼がそれで思い悩み、熱を出し、記憶を反芻する羽目になったのだろうことを思えば申し開きもできない。
 許してくれとは言えない。告げた言葉をなかったことにするつもりもない。偽らざる本心であることには変わりがない。

(しばらくは、この話題は控えよう)

 触れて怯えても拒絶はされていなかった事実だけでいい。
 体が治りきるまではこの家から帰す気もない。まずは治してから。
 私は決意するように手を握り込んだ。光と向き合える日をちゃんと作ろうと、心に決める。

 眠るその頬に唇をひとつ落として、私は寝室をあとにした。

――――――――――
2019.12.02.初出

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