光の熱は一進一退だった。
 平熱まで下がったその数時間後に上がり、平熱以下まで下がる。それを1日の内に何度も繰り返した。
 熱が下がればなにかしようと動き、熱を上げて廊下にぺたりと座り込んだまま寝こけることもあった。その度に私は彼を抱え上げベッドに運んだ。
 動いていないと不安なのかもしれない。それでも寝ていて欲しいのが本音なのだが。
 着替えの間に合わない速度で汗をかく彼に、何度目かの洗濯機を回して私のガウンを着せる。真っ白いふかふかのそれに包まれた光はどこか頼りなさげにベッドの縁に腰掛けている。

「下着…」

 ぽそりと呟かれた言葉にため息を吐く。

「私のではサイズが合わなすぎるだろう…洗濯が終わるまでは我慢してくれ」

 もじもじとガウンを引っ張る様は正直目の毒だ。いい意味で。

「ヒュトロダエウスとひかりちゃんが夕方追加の着替えも持ってきてくれるそうだから…」
「ひかりにパンツ見られた…」

 兄としての威厳が…と呟くのを苦笑しながら見守るしかない。
 本当はタオルで拭いて着替えるだけではなく、シャワーなり風呂なりできっちり汗を流して欲しいのだが、まだ熱が安定しない。もう暫し、色んなものに耐えてもらうしかない。

「とにかく、布団に入りなさい」

 何度目かの脱走の後の今である。追い込むようにベッドに横にさせる。肩口まで掛け布団を引っ張り上げてぽんぽんと胸元を軽く叩いて空気を抜く。

「2人が来た時に高熱で寝込んでました、の方が困るだろう?ちゃんと横になっていなさい」

 また少し熱で潤む瞳を見つめて、額に冷却ジェルシートをぺたりと貼り付ける。
 そのままとんとんと胸元を叩き続ければ、あっさりと光は眠りに落ちていった。

 帰る、と強情に言い張ることはなかったのは意外だった。あの震え方と気のやり方から何度かは押し問答をするようか、と構えていたのだが光は存外すんなりとここにいることを了承した。
 それでも、なにかに怯えるようになかなか視線を合わせてはくれないのだが。
 縋るような瞳で、そのくせ視線は合わないというのは辛いものがある。
 熱が上がれば呻く。呻いた口からただ懺悔のように謝罪が重なる。眠りの中にいても…眠りの中から戻れないからこそ、彼は自らの体を力任せに掻き毟る。痛みで忘れたいのか、そこから引き剥がそうとするような動きは、彼の体に傷を残していく。彼の腹部の真新しい傷はおおよそそれが原因のようだった。
 見られたくはないだろうと思い彼が着替えるときはできる限り部屋を離れるようにした。しかし、抜け出しては倒れるを繰り返せば見なくとも見る羽目にはなるわけで。
 静かに眠るその顔を眺める。眠りは苦手だとひかりが言うように、消えない目の下の隈をそっと親指でなぞる。
 その髪をくしゃりと撫でてから、私は寝室を後にした。

+++

 控えめなチャイムの音で意識を浮上させる。
 僕の家にはチャイムなんてついていないはず、そこまで考えて自分が家ではない場所にいることを思い出す。
 目を開けて体を起こそうとしたところで寝室のドアが薄く開いた。

「光、2人が来たけど、通しても?」

 声だけが聞こえる。おそらく服がはだけたりしていないかの配慮。起きていることは彼にはわかるのだろう。

「大丈夫、です」

 少し掠れる声で告げればドアが開かれる。
 ぱっと飛び出してきたひかりとその後ろからヒュトロダエウス、最後にゆっくりとハーデスが部屋に入った。
 ガウンの胸元を掴んでいれば、ハーデスが僕の背中に大きなクッションを入れ込んでくれた。

「ありがとうございます」
「兄さん、大丈夫?」

 ひかりの手がそっと僕の頬に伸びてくる。震えかける体を叱咤する。《妹》に怯える姿は見せられない。
 頬を撫でた細い指が首の後ろに触れてから離れていく。

「まだ、熱いね…」

 ハーデスがペットボトルの蓋を緩めたまま麦茶を手渡してくれる。それを一度喉に流し込んでから、ひかりに笑いかける。ハーデスは零す前にとペットボトルをすぐさま取り上げてサイドテーブルの上に置いた。

「熱だけ、だから」
「その熱が問題なんでしょ」

 言い返されてはぐうの音も出ない。

「エメトセルク、ちょっといいかな」

 僕らを見守っていたヒュトロダエウスは横に立つハーデスを呼んだ。

「あぁ…大丈夫か?」

 一度こちらを見たハーデスにこくりと頷く。
 ハーデスはひかりに小さな椅子を差し出して座るように促す。

「ひかりちゃん、後は頼む」
「はぁい」

 念には念を押して、ハーデスとヒュトロダエウスは寝室から出て行く。
 ぱたりとドアが閉まれば、部屋の中は奇妙な静寂に包まれた。

「…着替え」

 ややあって静寂を破ったのはひかりだった。肩にかけたままのトートバッグから新品の下着が出てくる。首を捻る僕に肩を竦めながらひかりは告げる。

「兄さん、もう少し服増やして」
「えぇ…」
「だって、下着、あと2枚しかなかったよ?」

 告げられて、あぁと思い至る。旅行の時に3枚ほど鞄に入れていたのを抜いてから荷物を詰めたからだろう、枚数が少なく見えたのは。

「編集長が、だったら新しく買ったのを追加してしまった方がいいって」

 職業体験はどうやらうまく進んでいるらしい。ヒュトロダエウスのことを編集長と呼ぶその変化に顔を綻ばせる。

「…そっか、お金払わないとね」
「もう! そういうのは治ってからでいいから!」

 カバンを探そうとした体を止めようと不意に伸ばされた腕にびくりとしてしまう。しまった、今のは完全に無防備だった。
 奇妙な静寂が今一度部屋を包む。
 なにか、なにか言わないと。

「…兄さん」
「なんだい」
「…お母さんに、連絡とってる?」

 告げられた言葉に、びくりと体が震える。

「…とってない」

 取るはずがない。あの家とはもう切れているのだ。父も許すはずがない。

「急にどうして」

 ひかりとの連絡手段が絶たれなかったのだけが幸いだったが、それすらいつ奪われるかわからない。
(もっとも、ひかりは僕の家を知っているのだから奪ったところで本人が来てしまうだろうが)
 携帯のアドレス帳には仕入れ業者とひかり、最近増えたハーデスの連絡先しかない。見られたとしても、やましいところはなにもない。
(それなのに、僕は怯えている)
 ひかりの手が、僕に向かって伸びてくる。

 僕に向かって、差し出される、女性の、腕

「っひ…」

 揮った腕がサイドテーブルの上から物を落とした。

+++

「拗らせてるね」

 リビングに移動して開口一番、ヒュトロダエウスはそう告げた。私は眉を顰めて彼を睨んだ。

「人嫌いのハーデスくんからは考えられない変化だ」
「…からかいに来たのか」

 ソファの背もたれに腰を預けながら、ヒュトロダエウスはこちらを見た。微笑むその目は笑っていない。

「…お節介だよ」
「いらん」

 冷蔵庫から冷やしていたドリップコーヒーを取り出してグラスに注ぐ。ひとつをヒュトロダエウスに差し出せば、彼はそれを素直に受け取った。

「いいのかい? そんな態度で」

 甘味が足りない、そう呟きながらコーヒーをその喉に流し込んでいく。

「…お前だけでも帰しておけばよかったな」
「ひどいひどい」

 ケタケタと笑ってから、その目がすっと細くなる。

「今のままでは前にも後ろにも進めないだろう?」

 当たらずも遠からずな言葉に、私はコーヒーを流し込むことで沈黙することにした。
 どちらにせよ、彼がもう少し復調してくれないことにはどうにもならないのも事実だ。

「ハーデス、君はちょっと勘違いをしている」
「…は?」
「彼が治ったら、彼が治るまで、それは言い訳に過ぎない…いや、それを言い訳にしてはいけない」

 見透かされたような居心地の悪さに、ヒュトロダエウスを睨みつける。

「人嫌いのハーデス、その優しさは彼を傷つけるよ」

 最後の一口を流し込んで、ヒュトロダエウスがカウンターにグラスを置く。

「君は覗いたんだろう?彼の深淵を」

 ヒュトロダエウスがなにを言わんとしているのか、わかりたくなかった。誰にだって触れて欲しくないことはある。うっかりその一端に触れてしまったからと言って、それを突き回そうとするほど私は人に無関心ではない。

「ハーデス、彼のあれは相当根深い。おそらく、君と繋がったところでそれは晴れることはない」

 ヒュトロダエウスは私を見ていない。寝室の方を、見ている。

「見て見ないフリ、はやめた方が良い。君がそうやって庇護するほど…彼は動けなくなる」
「…いっそ、そのほうがいいんじゃないか」

 同じように寝室を見つめて息を吐く。似過ぎている2人・・・・・・・・を思い浮かべる。

「そういうところが、人生経験が足りないというのだよ」
「ほっとけ」
「僕の安寧のためにもここは放っておけないんだよなぁ」
「はぁ?」

 間抜けな声を出したな、そう自覚するより早く寝室から大きめの物音が響いた。
 ヒュトロダエウスが何か言うよりも早くリビングのドアを開ける。寝室のドアノブに手をかけたところで、ヒュトロダエウスの手に制された。

「少し、聞いていたほうがいい」

 人差し指を立てて静かに、と笑いながら、ヒュトロダエウスが音を立てずにドアを薄く開いた。

+++

「兄さん」
「っ、なんでも、ない…」

 反射的に揮ってしまった手は、サイドテーブルの上のペットボトルや薬を床にぶちまけた。ごとりごとりと音を立てて転がるそれらの音が、やけに部屋に響く。
 拾わなければ、体を動かそうと思うのに、目の前に差し出された手が僕を制している。そこから、目が離せない。

「…兄さん、私が」
「ひかり…?」

 ひかりの表情は見えない。俯きがちな顔は普段快活とした彼女には似合わない角度だった。

「私が、なにも知らないと思った?」
「…っ」

 ひかりは、なにを言っているのだろう。
 その手が迫ってくるのを見て、反射的にベッドを後ずさる。これ以上下がりようなどないのに。

「…ねぇ、ずっと怖がってたよね」
「ひかり、なにを」
「兄さんが必死に隠そうとしてたのも知ってる」
「ひかり」

 呼びかけに、鋭い視線が飛んでくる。細い指が、僕の頬に触れる。

「…父さん」

 どんな顔を、していたのだろう。
 悲しそうに歪んでいくひかりの表情が、確信を秘めて鈍く笑った。

「兄妹にしてはおかしいって、私が気付いてないと思った?」

 ひかりはゆっくりと立ち上がって、ベッドの縁に腰掛けた。近い、近くなる距離に今一度後ずさる。後ろなど、ない。

「養子の兄さんと、私が、同じ髪に同じ顔をしているの、おかしいじゃない」

 さわり、さわり、頬を撫でる指。
 どこを見ればいいのか、見なければいいのか、それすらわからない。
 彼女を守るために必死に隠してきたものを、彼女自身で暴かれている。

「ひ、かり」
「うん、私の名前。父さんがつけてくれた、私の名前……ねぇ、その父さん・・・は、どっち?」

 震えが止められない。尋ねられた言葉を反芻することを脳が拒む。
 のしかかるあの圧を思い出す。触れる指は違うのに、思い出してしまう。
 あつい。あつくて、さむい。

「もう、守らなくていいんだよ」

 瓦解は一瞬で。
 涙が溢れる。止まらない。弱い自分を見せたいわけじゃない。
 強くならないと。君を守るために。そう思っていたのに。

「気付いてた? 私、兄さんが親になったのと同じ歳になったんだよ」

 あぁ、吐きそうだ。この胃の中のものを全部ぶち撒けてのたうちまわってしまいたかった。

「兄さん」

 ひかりの手がガウンの襟元を掴む。その体が、幼子のように抱きついてくる。

「…助けて」

 呟かれた言葉は庇護を求める声ではなかった。ただ胸の内を吐露してそれを掬い取って欲しいのだと懇願する声だった。
 息が詰まる。動けない。跳ね除けることも、抱きしめ返すこともできない。

 大切な、大切な、可愛らしい、僕の《娘》

 ただ、君を守りたかったんだ。君を守れれば、それで赦されるんじゃないかと思っていたんだ。
(あぁ、赦されることすらないのか、僕は)
 冷えていくのは、心か、体か。

「兄さん…」

 その肩を震える手で引き剥がす。知られてしまった以上…理解されてしまった以上、側にはいられない。

「…帰りなさい」

 ようやく吐き出せた言葉は拒絶だった。

「兄さん」
「帰って、忘れなさい」

 君の父親は1人でいい。僕のことなんて、忘れてしまえばいい。

「帰って、忘れて、もう来るのもやめなさい」
「兄さん!」
「僕は君の兄じゃない!」

 他人の家で痴話喧嘩をしている様に渇いた笑いが溢れた。1人では立ち上がることすら覚束ないというのに、縋られてどうする。
 振り払え、拒絶しろ、彼女の幸福のために。

「そうだ、僕は兄じゃない。親でもない。お前とは、繋がりのない他人なんだよ」
「兄さん、なにを…」
「僕が親だとも限らないだろう?」

 特徴的な髪の色はそれだけで2人が繋がっていることを示しているというのに、僕は君を拒絶するためだけに刺を刺していく。翻って、自分に。

「僕と君は、違うものだ」

 とん、とその肩を押して手を離す。縋りつかれる前に、膝を曲げて拒絶する。

「帰りなさい…知らない君」

 そうだ、これでいいんだ。いつまでもずるずると、兄妹でいたことが間違いだったんだ。もっと早く、その手を離しておくべきだったんだ。その顔を見れなくて、目線は下げたまま、僕は目を瞑った。
 ぎしりとベッドから圧が消える。
 帰りなさい、ここにはもう来てはいけないよ。ここにはもう、僕はいないから。
 去っていくその背中を見ることすらできない。
 ぱたりとドアの閉まる音。
 あぁ、ハーデスの家でなにをしているのだ僕は。彼にも迷惑をかけてしまった。早く、早くここから去らないと。

「帰らせると思ったか?」

 降りてきた言葉に顔を上げる。
 ベッドの脇、静かにハーデスは立っていた。

「…お騒がせ、しました」

 僕は彼から視線を外す。見れない、見たくない、見られたくない。
 ハーデスがベッドの縁に腰掛ける。どうしてみんなそこに座るのだろうか。逃げられないじゃないか。

「聞こえてましたか」
「…あぁ」

 ふぅ、と息を吐き出す。あぁ、知られたくなかったのにな。

「そうですか」

 知られなければ、もう少しここで微睡んでいられただろうに。優しい夢を見てしまった罰かな。

「…帰ります」
「帰さない」
「ハーデス、さん」
「治るまでは帰さない」

 きっぱりと言い切る彼はとても真っ直ぐだ。

「治っても、帰さないほうがいいか」

 俯いた僕の顔を、彼の手が上向ける。金糸雀色の瞳の向こうで、酷い顔をした僕が歪んだ笑みを浮かべていた。

「治りました」
「嘘にすらなってないぞ」

 その目も、顔も、雰囲気ですら笑っていない。あぁ、怒っているのかな。僕は本当に、人を笑顔にすることすらできない。

「聞いていたが、だからどうした」
「…僕は、そんな人間なんです」

 あなたが思い描くような美しい僕なんてどこにもいない。足掻いて、足掻いて、もがく様にみっともなく這いつくばる醜い人間の形をしたなにかなのだ。

「その程度で揺らぐと思ったか」

 真っ直ぐな視線が痛い。
 額に張り付いたままもう意味を成してない冷却ジェルシートを剥がして、ハーデスの手が僕の額に触れる。
 びくりと震える僕に構わず、ひたひたと何度か触れてから、その手が離れていく。

「上がり始めているな」

 床に落ちた薬や袋を拾い上げて、ハーデスの手が新しい冷却ジェルシートを剥がす。ぺたりと貼られたそこがひんやりする。

「…色々言いたいこともあるだろうが、一度寝てしまえ」

 とん、と肩を押されてずるりと布団の中へ押し込まれた。掛け布団を直してとんとんと胸元が叩かれる。

「起きたら、聞いてやる」

 眠っている場合じゃない、ここから去らないといけないのに。そう思うのに、熱を持ち始めた体は言うことを聞かずシーツに沈んでいくだけだった。

+++

「そっちは落ち着いたかい?」

 リビングに戻った私に、腕の中にひかりを抱いたままヒュトロダエウスが声をかけてきた。

「…熱が上がり始めたから、寝かせた」
「うん、今はそれでいいと思うよ」

 ぽんぽんとひかりの頭を撫でるヒュトロダエウスの表情は優しい。

「…ごめんなさい」
「謝らないで…遅かれ早かれ、告げるつもりだったんだろう?」

 ひかりの謝罪に、ヒュトロダエウスが視線を合わせてにこりと微笑む。こくりと頷いたひかりの頭を今一度ぽんぽんと叩いてヒュトロダエウスは彼女をソファへ導いた。

「茶でいいか」
「甘いやつ?」
「甘くないやつ」

 ちぇー、と声を上げるヒュトロダエウスは無視してハイビスカスティーの入ったピッチャーとグラスを3つソファ前のテーブルに置く。
 注いで手渡せば、ひかりはそれを一気に飲み干した。

「なんだ、グルか」

 2杯目を注ぎながら告げれば、ヒュトロダエウスから人聞きの悪い、と拗ねた声が上がる。

「相談されたんだよ、ワタシは」
「大丈夫か? こいつだぞ?」

 思わずひかりにそう告げれば、ひかりはくすりと笑った。

「ひどいなぁ」
「大丈夫です…兄のことを知っていて、兄に近くない人に相談したかったから」

 なるほど、その立ち位置だと私は不適切だ。私は少し、光に寄りすぎている。
 2杯目をゆっくりと飲みながら、ひかりは小さく息を吐いた。彼女も、相当勇気を振り絞ったのだろう。

「4人揃えるタイミングが無さそうだったからね…」

 光とひかりの2人で話をさせたら早々に光が話を終わらせていただろうし、私かヒュトロダエウスが側にいたら彼は頑として口を割らなかっただろう。近くにいるだけ、の状態を作りたかったことはわかった。

「まぁでも…根は深いね」

 ヒュトロダエウスはぽつりと呟いてお茶を飲んだ。甘味が足りない、と言う言葉は無視しておく。

「ひとつだけ、いいか」

 私の言葉に、ひかりがこちらを見た。見定める瞳は、今も健在だ。

「…ひかりちゃんの中で、光は兄なのか…父なのか」

 曖昧な立ち位置を定めておかないと、とんでもないことになる。

「私にとっては、兄です。今までも、これからも」

 兄と慕う者に、それでも真実を告げて前を向いてほしいと願う様は、なんと喩えればいいのだろう。

「…兄さんは、昔から自分自身の事は気にかけてくれなくて」

 ぼんやりと窓の向こうに視線をやりながら、ひかりは思い出す様に呟いた。

「良い兄を、ずっと演じてくれていました」

 そう在らねばならないと、自分を戒めて光はひかりを守ってきたのだろう。

「もういいよって、言ってあげたかったんです」

 言えませんでしたけど、ひかりは視線を落とした。
 ぽんぽんと、その頭をヒュトロダエウスが撫でた。

「ハーデス、責任重大だね」
「は?」
「君がいたから、彼女は言う決心をしたんだよ」
「なに、を」

 いやまってくれ、まさか。

「やだなぁ、僕らが気づかないと思ってたの?君の恋心に」

 嘘だろ。

「いや、まて、まってくれ」

 2人とは編集と作家という観点から連絡は取り合っていたが、旅行の話ぐらいでしか光の話題は出していないはず。
 いや、そもそも、こんなおじさんが自分の身内…しかも兄に恋慕してるなど、軽蔑されてもおかしくない事態だぞ。

「僕より、ひかりちゃんの方が先に気づいたんじゃないかなぁ」
「…は?」

 いやまさかもしかして、初対面のアレか…? あれで気づいたのか…? あの時はまだ、自分の中でも自覚はあれども固まりきってなかったというのに…。

「女の子ってすごいよね」

 かんらかんらと笑うその顔を、苦虫を噛み潰した顔で眺めることしかできない。

「…兄さんから、他人の話が出る事なかったんです」

 ぽつりと話しながら、ひかりはソファの背もたれに背を預けた。

「素敵なお客さんがいるんだ、って」

 初めて会った時より前ですよ、とひかりは笑った。あれよりも、前…?

「兄さんからそんなふうに言われるなんて、本当に素敵な人なんだな、って」

 3杯目のお茶をヒュトロダエウスが継ぎ足す。

「いやだって、他にも常連はいるだろ…?」

 少なくとも通ってる間に親しげに名前を呼ぶ客が数人いたのは知っている。

「お店の話、しないから…ううん、兄さんは私の話は聞いてくれるけど、自分の話はしてくれないから」

 寂しげにそう告げて、ひかりは3杯目のお茶に手をつけた。

「嬉しかった。兄さんにも、ちゃんと思える人がいるんだって、それがすごい嬉しくて」
「会ってみてどう思ったの? 言っちゃなんだけど、いい年したおじさんじゃない」

 ヒュトロダエウスの軽口に、睨みを効かせる。お前だって同い年だろうに。

「うーん、おじさんとは思わなかったかなぁ」

 喜んでいいのか、判断しかねる。

「大人の男性だな、とは思いました」

 着物でしたし、と告げるひかりの声にヒュトロダエウスがあぁと声を上げる。

「そう言えば打ち合わせの時は洋装だもんね」
「そっちのが楽だからな」

 お茶を喉に流し込みながら、ひかりの次の言葉を待った。

「男性同士とか、気にならなかったの?」

 こちらの聞き出せないことを聞いてくれるのは助かるが、あまりズバズバ切り込まれるとこちらも辛いのだが?

「え、問題ありました?」

 …若さってこういうことなのかもしれない。

「自分のことですら興味ない兄さんが、好意を寄せたってだけで奇跡でしたよ、奇跡!」
「そこまでか」
「そこまで、です」

 ひかりが笑いながらこちらを見た。

「だから、そんな事はどうでもいいんです」

 言いたいことを言えたのか、さっぱりとした表情だった。

「…さて」

 ヒュトロダエウスがぽんぽんと膝を叩いている。

「本当は彼が起きるまで待ってもう一度ちゃんと話をするべきなんだろうけど…そろそろ帰らないとね」

 時計を見れば19時になろうとしていた。

「それは週末にでも、ゆっくりね」

 ヒュトロダエウスがあやすようにぽんぽんと頭を撫でている。そういえば、やたら距離が近い…ような…。

「荷物、持ってくる」

 あぁ、なるほど。外から見た私もこんな感じに見えるのか。
 妙な納得を覚えながら私はソファから立ち上がった。振り返ると、ヒュトロダエウスがひらひらと手を振っていた。

 そっと寝室に滑り込めば、少し息苦しそうな寝息が響いている。
 覗きこめば、少しだけ眉根を寄せて短く浅い呼吸を繰り返している顔が見える。頬と耳が真っ赤だ。
 サイドテーブルの引き出しを開けて耳式体温計を取り出し熱を測れば38.5℃。やはりぶり返している。
(心因性だもの、そりゃなぁ…)
 頬に手を添えてやれば、擦り寄ってくる。熱をどうにか逃したいのだろう。頬からゆっくりと一番熱くなっている首の後ろへと手を差し入れると、ほぅと息が漏れた。
 擦るように少しだけ撫でてから手を離す。呼吸は少しだけ落ち着いていた。
 手早くひかりの荷物を手に持って寝室を後にする。リビングに入ればちょうど二人が立ち上がるところだった。

「ありがとうございます…兄さんは?」
「やっぱりぶり返してるな」
「ですよね…」

 ショルダーバックを背負いながら、ひかりが私をじっと見ている。

「エメトセルクさん」
「ん?」
「兄さん、捕まえててくださいね」
「責任重大だね」

 後ろでマフラーを巻きなおしたヒュトロダエウスが笑っている。他人事だと思って。

「努力はする」

 両手を上げて降参のポーズを取れば、顔を見合わせた二人が笑った。

「じゃぁ、エメトセルク週末に」
「あぁ…お前も来るのか?」
「え、なんでワタシだけ除け者にしようとしてるの?」
「冗談だ」

 玄関で靴を履く二人を壁にもたれかかって眺める。あぁ、怒涛の一日だった。

「原稿もよろしくね!」
「はいはい」
「お邪魔しました」
「気を付けて」

 仲良く2人が玄関の向こうに消えていくのを眺める。
 問題だけが降り積もって体積を増した部屋が、少しだけ暗く映った。

――――――――――
2019.12.03.初出

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