「おかえりなさい」

 クリスタリウムに戻って早々に部屋で休め! と居住館に押し込められたものの、そう言えばマーケットを覗いておきたいのだったとするりとドアを抜け出して。管理人さんに直ぐに戻るよとだけ声をかけてペンダント居住館から外へ出た。
 天蓋を覆う青い意匠が、ムジカ・マーケットを淡く輝かせていた。

 マーケットボードをチェックしてから食料品店へ行き軽食をいくつか買っておく。自分で作っても良かったのだが、流石にそこまでの気力は今はなかった。渡された紙袋をしっかりと両手に抱え込むと部屋へ向かって歩いていく。
 管理人さんに声をかけるとなぜかにこにこと微笑まれた。良いことでもあったのかな、と首を傾げながら自室としてあてがわれた部屋へ向かえば、自室の扉の前で水晶公と鉢合わせた。

「ただ、いま…どうしたの?」
「体の調子はどうかな、と思ってね」
 部屋の前で立ち話もなんだし入ってよ、と自室のドアを開き招き入れた。
「戻ってきて直ぐにマーケットに行ったから少し散らかってるのは勘弁してくれな」
 床の上に放ったままのバックパックや鎧の一部を避けながら、備え付けのテーブルの上に今買ってきた食料を置いた。
「何か足りないものでもあっただろうか?」
「じゅーぶん足りてるよ。むしろオレに割いてないで他のみんなに分けてやってほしいぐらいだ」

 いくら今は反旗を翻したと言っても、元々限られた物資で暮らしていただろうことは、ここの住人たちの慎ましやかな暮らしぶりを見ていればわかる。たしかに自給自足ができる分他の地域よりはマシなのかもしれないが、それでも物資が足りているとは言い難いこともわかっていた。

「住民たちからも過不足なく、と言われているのでね」
「んんん、そんな風にしてもらう理由がないんだよなぁ」
 先ほど買ってきた包みの中からキャラメルを取り出し口に含む。じわりとした甘味が口内に広がって疲れた体がぽっと和らいだ。
 もう一つ取り出して水晶公もどうぞと手渡すと、彼は困ったように笑いながらそれを受け取ってくれた。
「皆、あなたに感謝しているのだよ」
「夜を取り戻したこと? あれはオレが勝手にやったこと、みたいなものだしなぁ」
 立ったままもあれだし、と椅子を引いて水晶公に座るように促す。彼が腰掛けるのを見ながら机に腰をもたれかけさせた。
「それでも、あなたは我々がこの100年為し得なかったことを為したのだ」

 水晶公は不思議な人だ。英雄の足跡を知り、英雄を求め、英雄を呼び寄せた人。その英雄がなぜか自分だったのがよくわからないが、おそらくこれも光の加護とやらのせいなのだろう。
 優しい声色は、失った思い出によく似ていて、彼の口から否定されたのに、もしかして、が離れない。

「褒めるなよ、何も出ないぞ?」
「十二分な働きで返してもらっているさ」
 顔の半分以上はフードで見えないのに、その微笑みの視線がどこまでも優しいことがわかった。
 手に持ったままのキャラメルを後で頂こうと懐に入れて、水晶公は立ち上がる。
「休む前だというのに邪魔してしまってすまなかったね。また明日、ゆっくり報告を聞かせてほしい」
「あぁ、心配して見にきてくれてありがとう」
 促されるように立ち上がり、彼を見送るためドアの前へ。

 ドアに手をかけて開こうとした水晶公は…ドアは開かずにこちらを振り返った。
「あの」
「ん?」
「やはりそれは…クセ、なのか?」
 ここ数日随分クセについて聞かれるな…そう思ってからはたと気づく。
 水晶公の視線が下へ。つられてこちらの視線も下へ。
 2人の視線の先に、水晶公のローブをさわりさわりと摘む英雄の指先。
 たっぷり5秒の沈黙。
「あぁぁぁ、ほんとごめん!!」
「あ、いや、ど、どんとこい!」
 お互いに叫びながら何を言っているのか。びゃっと自分の両手を背中に隠してひたすら謝ることしかできない。
「いや、ほんと、これ、クセなんだ、ごめん!!」
「…あ、あぁ。いや、少し驚いただけで、うん、気にしてないから!」
「気にして!? あ、いや変な意味ではなく!」
 あわあわと相手が焦ればこちらも焦るを繰り返して、謝罪になってない謝罪の応酬を繰り返して、お互いにきっと顔が真っ赤だ。
「まて、落ち着こう」
 ばっと手を顔の前に上げて肩で息をしながら、水晶公はどこか真剣な声色でそう告げた。
「お、おぅ」
 こちらもその声色に少し声を落として答える。
「…理由を聞いても?」
 ドア横のソファに2人で腰掛けながらお互いに上がった息を整える。
「あ、いや、そんな大層なものじゃないんだけどさ」
 無意識のうちに手触りの良いものを探して触れてしまう、と簡潔に伝えれば水晶公は小さくふむ、と呟いて言葉をさらに紡ぐ。
「なるほど、それは一種の防衛本能なのかもしれないね」
「防衛本能?」
 その視点では考えたことがなかったので素直に尋ねてみることにした。

 開け放たれた窓からさやさやと優しい風が夜の香りを含んで届く。あぁ、もうすぐ日が暮れて待ち望んだ夜が来るのだな、と頭の片隅でぼんやり考えた。

「単純に考えればそうなるのではないかな。自分の心の根本で良いか悪いかを見極めたい、ということだろう」
「あぁなるほど…たしかに」
「まぁ、それが直接触れる、というのは些か…危なっかしい確認方法ではあると思うが」
 言われてうぐっと言葉に詰まる。とどのつまり相手に触れねば分からぬということは相手の懐に飛び込まなければいけないということ。味方であれば問題はない……倫理的な問題はさておきとして……が、敵となれば話は別だ。
「あぁ、それでか」
「へ?」
 思い当たることがあるのか、朗らかに笑った水晶公がこちらを見て言葉を重ねる。
「あなたは覚えてないかもしれないが…ここに来て直ぐ星見の間で話をしただろう? その時にも触っていたのだよ」
 ぴんっと耳と尻尾が立ったのがわかった。
「……マジ、で?」
「マジ、だ」
 そして今度は耳と尻尾がぺたりと下りたのまでわかった。
「う、そだろぉ…」
 顔を覆って大きくため息を吐き出すと困ったように水晶公は笑った。
「何か理由があるのだろうなとは思っていたが…なるほど今の話を聞いて合点がいった」
「いや、うん、できればその時に教えて欲しかったかな!?」
「はは、すまない。あなたも無意識だったようだし詮索しないほうがいいかなと思ってね」
「あぁ、うん、確かに今の方が幾分か落ち着いて弁明できるとは思うよ…」
 はぁーっと大きくため息を落とすと、水晶公は小さな声でそれで、と囁いた。
「その…私は、あなたのお眼鏡に適いそうだろうか」
「ふ、ぇっ?」
「あ、あぁいや、こんな老いぼれなど歯牙にかけないというのなら良いのだが」
「へ? あ、そんなこと、ぜんぜん?」

 同じ男のこちらから見ても、水晶公は良い手触りを持つであろうことが見て取れた。人当たりよく、平等で……ちょっと英雄に対しては平等ではなくなっているが……優しく、強い。
 100年もの間、人としての理を捨ててただ1人を喚び世界を救うために尽力するなど、自分ではできそうもない。顔を見せてくれないことが引っかかるし、どうにも新しくて遠くなった思い出とダブってしまうが…それでも彼は〝良い〟だろうなということは、ここまでの短いやり取りでもよくわかっていた。

「きっと〝良い〟だろうな、って思ってる」
「…ふむ…」
 ひとつ頷いた彼は少し控えめに、しかししっかりした声色でこちらに向き直り尋ねてきた。
「ならば…今一度触れて確かめてみるかい?」
「…いい、の?」
「あぁ」
 どんとこい! と両手を広げる彼にそっと手を伸ばす。

 白い布、赤い布、黒い布。少しずつ違う手触りで、でも指の上をするりと滑るそれは〝良い〟手触りで。右手の水晶に触れればカチリとした水晶特有の硬質的な感触なのに、ほのかに暖かいのがわかった。あぁ、あなたはこの中で確かに息づいていると、わかる温もり。
 視線はぼんやりとその口元から逸らせないまま指を上へと滑らせる。
 袖口の金属の飾りが硬質的な手触りでヒヤリと熱を奪っていく。しかしてそのまま首元の水晶と肌の境目を慎重に撫でればそこから感じる熱は暖かくて。
 左頬の水晶と肌の境目をするすると撫でながらさらに手を伸ばそうとすると、やんわりと柔らかな人の手で遮られた。

「フードは、下ろせないのでね…すまないね」
「……あ、うん…ごめん」
 握り込まれたこちらの指を優しく撫でながら、彼の膝の上にそっと招かれた。
「いや、謝るのはこちらの方だ。未だ素顔すら明かせぬ男だもの、不審がられても仕方がない」
「不審とか…オレは思ってないよ」
「そうかい?」
 尋ねる声色が少しだけ寂しそうだったので、少し強めにそうだと告げた。
「そうか…ありがとう」
 彼の口元が優しく微笑みの形を浮かべていた。
「水晶公も、手触りが〝良い〟から」
 どう伝えるべきか、迷ってあけすけに伝えてみれば一瞬驚いたように表情を変えて、それから本当に嬉しそうに笑ってくれた。
「お墨付きがもらえて、良かったよ」
「そんな大層なものじゃないってば…」
 はは、と笑いながら水晶公が立ち上がる。今度こそ部屋を去るらしい。
「長居をしてしまったね…どうかゆっくりと休んで」
「うん、水晶公も」
 問いかけには曖昧に微笑んで、あぁこれは今夜もお仕事で忙殺されるのだなとこちらも苦笑いで返す。
 開いたドアの向こうで懐かしい声色が優しくおやすみと告げてくれた。

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2019.10.26.初出

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