久しぶりにバーを開けたら、待ってましたとばかりに1人また1人と常連が訪れてくれた。
旅行のお土産と共に帰宅後熱を出していたことを伝えると、皆が皆もっと自分を大切にしろと言う。それには苦笑いで答えることしかできない。
初日は、ハーデスは訪れなかった。
彼は彼で僕がいる間にできなかったこともあるだろう。
そもそも毎日のように顔を合わせていたのだ、僕を見るのもうんざりしていたかもしれない。
バーを閉めた後に携帯を見たらハーデスから写真が送られてきていた。たぶん…ご飯の写真。
言葉はひとつも書かれていない。
何か返事を返すべきか、そう思ったがこんな明け方に着信音を鳴らすのは気が引けて、既読マークが付いていることだけを確認してメッセージアプリを閉じた。
眠れそうになかったのでひたすら本を読んでいた。そういえばゆっくり本を読むのも久々だった。
2日目も3日目も、ハーデスは訪れなかった。お客さんはぽつぽつと。寒くなってきたからとホットワインを出せる準備をしていたら、出した初日に2本ワインを開けられてしまった。明日は多めにワインを注文しておこう。
ハーデスからは写真だけが送られてくる。野良猫の写真と、夜景の写真だった。既読マークが付いたのを見てから、ソファで本を読み続けた。
4日目も、5日目も、それから暫く、ハーデスは訪れなかった。
彼の体の心配をするけれど、毎日写真だけは送られてくるのでそれだけを見て元気なのだろうと思いこもうとしていた。取り留めのない写真の一枚一枚に縋り付きそうになっている自分にため息が漏れた。
眠ることが、できない。
「いらっしゃいませ…お久しぶりですね」
珍しい人が訪れた。
「フフフ、こんばんわ」
ヒュトロダエウスはにこりと微笑みながら席に座った。今日は他にお客はいない。
「カルーアミルクと…何か野菜もらえる?」
「…サラダのがいいですか?」
「あー、ピクルスとかでいいよ。もー、忙しくて野菜取れてなくて」
「かしこまりました」
カルーアミルクとピクルスの食べ合わせに関しては口を噤んでおく。たぶん…合わないと思う。
ミックスナッツとカルーアミルクを出してから、冷蔵庫の中でひんやりと冷えたピクルスにエメンタールチーズを薄くスライスしたものを添えて出す。
「カルシウムも、とった方がいいですよ」
「ありがとう…その後、どう?」
何を問われているのかがわからなかった。
「どう…とは…あぁ、体調ならおかげさまで」
ご心配をおかけしました、と頭を下げれば違う違うと否定される。
ヒュトロダエウスはカルーアミルクを勢いよく飲み干しながら言葉を続ける。
「ハーデスと」
すぐに2杯目を所望されるな、そう思いながらチェイサーをそっと差し出す。
「…おっしゃる意味が、よく」
「仲良くやれてるかな、って」
「…お店の方には、来られてないので…」
そう、彼はここに来ていない。もう、2週間と少し、顔を見ていない。
ヒュトロダエウスの眉間にシワが寄る。
「お忙しいんだと思います」
他に答えようもなく、そう告げてから2杯目を尋ねた。
「…あったかいの、飲みたいなぁ」
ヒュトロダエウスはチーズを摘みながらそう告げた。
「ホットワイン、お出ししましょうか」
「あぁ、それはいいね」
裏のキッチンからワインを小鍋に注いでカウンターへ持ってくる。砂糖、レモンの輪切り、シナモン、クローブを入れて沸騰直前まで温めれば完成だ。
「あぁ、いい香り」
「どうぞ」
持ち手のついた耐熱ガラスのグラスに注いで差し出せばヒュトロダエウスはにこりと笑った。
「めっきり寒くなったよねぇ」
「そう、ですね…」
最近はめっきり冷えるようになってきた。もうすぐクリスマスだ。
「光くんは、クリスマスはどうするの?」
「…お店を開けてると思いますよ」
「お店で何かするの?」
「パーティ的なものはしませんが…」
今までもクリスマスも年越しもバーだけは開けていた。今年も同じだろう。
「クリスマスって…人来るの?」
「うぅん…正直、来ないですね」
来たとしてもふらりと訪れた一見さん程度。席数も少ないこの店ではどんちゃん騒ぎもできない…いや、バーだから出来ればしないでほしいのだけれど。
結果、特に客も来ないまま閉店時間となることの方が多い。
「それでも開けてないとなのか…大変だ」
別段それを苦だと思ったことはないのだが、返答として適切でないことをわかっているので苦笑しておく。
「出版社も大変なのでは?」
「師走だからねぇ…どこも大変だよ」
ホットワインをゆっくりと喉に流しながら、ヒュトロダエウスは笑った。
「そうそう、一昨日さ、ひかりちゃんにコピーをお願いしたら、ぼーっとしてたらしくて渡した資料じゃなくて自分の数学のノートコピーしてたんだよ」
「何をやっているんだ、あの子は…」
顔を覆ってはぁとため息をつけば、ヒュトロダエウスがくすくすと笑った。
「期末テスト直前で疲れてたみたい。もうテスト前だからバイトはお休みしてもらってるよ」
「…そうか、もうそんな時期なんですね」
ひかりは出版社で働くことを気に入ったらしく、そのままバイトとして働くとメールで伝えてきていた。初めてのバイトだと言っていたので頑張れと送り返してはある。
「あっという間に年末だねぇ」
「…ですね」
ヒュトロダエウスはひょいひょいとピクルスとチーズを交互に食べている。ホットワインとなら、まだ合うだろう。
「はぁー、明日からも仕事なのがつらい」
「仕方ないですね、こればっかりは」
ホットワインを流し込んでチェイサーも飲み切ったヒュトロダエウスが大きく伸びをして会計を求めてくる。
いつものようにトレーに伝票を伏せて差し出すと、ヒュトロダエウスは金額を確認せずお札を3枚出した。なるほど、さすが編集長。数度この店を訪れただけで価格帯まで見抜いている。
お釣りを返して礼を言えば、首元が出ないようにマフラーをぐるぐるに巻いている。さすが、冬眠するタイプの種族だ。
「光くん」
「はい…?」
「ちゃんと、寝てる?」
ぎくりと体が固まる。
「寝て、ますよ」
「ふぅん…なら、いいけど」
手袋をはめた指先でヒュトロダエウスは目の下をとんとんと叩いている。その目が、じぃっとこちらを見ている。
「それじゃ、ごちそうさま。またくるね」
「あ、はい…おやすみ、なさい」
ぱっと明るい表情になったヒュトロダエウスはひらひらと手を振って店を後にした。残された僕はその後ろ姿を見送ることしかできなかった。
深夜3時
お店を閉める時間だ。看板をクローズにして舷窓のカーテンを閉める。
閉店作業をしてひとつ息を吐いたところで、とんとんとドアを叩く音がした気がした。
「…?」
暫く待つと、またとんとんと音がする。舷窓のカーテンをちらりとめくるが、何も見えない。カーテンから手を離すとまたとんとんと音がする。やはり、目の前の扉からだ。
鍵を開けてドアノブを押すと、ぐんっとドアが引っ張られた。
「っわ、と?」
勢い余って目の前の何かに突撃してしまった。なんだろう、見上げる前に音が降りてきた。
「…光」
見上げた自分が大きく目を見開いたのがわかった。
少し息を荒くしたハーデスが、僕の体を支えていた。
「…ハーデス、さ、っ!?」
名前を告げ切る前に、店の中に押し込まれる。混乱する僕の前で、ハーデスは後ろ手にドアの鍵を閉めた。
黒いジャケットに黒いズボン、黒いタートルネックのセーターと全身黒づくめのハーデスが、目の前に大きな壁のように立っている。
一歩、近づいてくるのにあわせて一歩後ずさる。
何も言わないハーデスと、何も言えない僕はそのままじりじりと店の奥へと移動していく。
背中が、壁に当たる。もう下がることはできない。
「…ハーデス、さん…?」
おそるおそる名前を呼ぶけれど、返事はない。無言で目の前に立つハーデスの顔が影になって、表情も窺えない。
頬に添わされる手が冷たい。こんな時間にたいした防寒もせずにここまできたのだろうか。
顔の横に大きな腕が檻のように降りてきて逃げられなくなる。
上向かされた、そう思った次の瞬間には唇が塞がれていた。触れる唇も冷えている。荒い息だけが、熱い。
状況が飲み込めず押し返そうとするもびくともしない。がっちりと顎を掴まれていてかぶりを振ることすらできない。
「っん、ひゃ、です、さっ、んぅ」
なんとか名前を呼ぼうと声を絞り出しても、そのほとんどはハーデスの喉の向こうに消えていく。声を絞り出したその唇を割るようにハーデスの舌が入り込んで口の中を弄られる。隅から隅まで確かめるように柔らかく舐められ吸われて膝ががくがくと震える。押し返そうと伸ばした手で、思わずハーデスのジャケットを強く握りしめた。
たっぷりと時間をかけて口内を味わったハーデスの舌と唇が離れていく。互いの唾液が混ざり合い2人の間に光る橋をかけた。
「っハーデ、ス、さん…?」
肩で息をしながら見上げれば顎を掴んでいた指が頬を撫でて目の下をなぞる。
「なぜ、寝てない」
ハーデスの口から絞り出された言葉が、飲み込めなかった。
「…え?」
「わからないと、思ったか」
ぐいっと体を持ち上げられて声を上げる前にソファに投げ出された。座面に膝をついて僕を囲うようにハーデスが体を寄せてくる。
「…ハーデス、さん? ねぇ、なにが…?」
訳がわからないまま疑問を投げかけるけれど、彼は答えてくれない。ただ、その瞳が鋭く僕を睨んでいて小さく震えるしかない。
ハーデスはジャケットのポケットからスマートフォンを取り出して操作してから、画面を僕に見せた。
映し出されたのは僕の横顔。酷いクマをしてやつれた、僕の顔。
「……え?」
画面とハーデスを交互に見比べると、ハーデスが大きく息を吐いてスマートフォンをポケットに仕舞い込んだ。
「…説教を、された」
ハーデスが僕の肩に顔を埋めて小さな声で呟くように言葉を発した。
「距離感を間違えるな、と」
ハーデスがなにを告げようとしているのかわからなかった。ただ、肩口に押し当てられた額が甘えるようにぐりぐりと動くのを、感じていることしかできない。
「光」
名を呼ばれて、動けないままにそっと彼に顔を寄せた。
「…私を、待っていたのか?」
問われた言葉が胸の真ん中に落ちていく。
毎日送られてくる一枚の写真だけがハーデスと僕を繋ぐひとつの糸だった。それだけでいいと思いながら、毎日バーに立ち続けていた。今日も来なかった、と開かないドアを見つめていた。
「…光」
肩口からハーデスの顔が離れていく。僕を見ているその顔が、滲んで見えない。
「…泣かないで」
頬に手を添えられて、伝う滴を指で払われて、僕は自分が泣いていることを知った。
「…待って、ました」
ようやく絞り出した声は酷く震えていた。
どうして僕は泣いているんだろう。どうして彼は泣きそうな顔をしているんだろう。
「すまない」
ハーデスの両手が僕の肩を掴んで、そのままその腕に抱き留められた。冬の夜の香りを含んだジャケットから、ハーデスの香りが優しく香ってくる。
ほぅ、と小さく息を吐いて僕は瞳を閉じた。
+++
「…外、寒くなかったですか」
抱き上げて、横抱きにして、膝の上に座らせて。その頬を確かめるように撫でていれば、光の口から小さく言葉が溢れた。
「…あぁ、すっかり冬だ」
光は瞳を開かぬまま私の胸に少しだけ擦り寄った。
互いにかけるべき言葉を失ったまま、そこにあるぬくもりを探るように寄り添っていた。
肝心なことなど、何ひとつ話せやしない。
あ、と小さく光が声を上げた。まだ、瞳は開かない。
「なにか、飲みますか?」
「…いや、いい。そばにいてくれ」
私の言葉に光は小さく頷いて、わかりました、と答えてくれた。
時刻は4時を回っている。何をどう話すにしろ、光を一度眠らせるべきだ。
たぶん、この子は別れたあの日からきちんと眠れていない。
「光。ベッド、行こうか?」
出来る限り優しく問いかければ、その肩がぴくりと震えた。
ゆっくりと瞳が開いて、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。色素の薄い瞳が、ゆっくりと私を見上げてくる。
「眠い、ですか?」
「…私じゃない。君が」
頬を撫でていた指先で目の下のクマをなぞる。ずいぶんと色濃くなってしまったそれが、小さな体に不釣り合いだった。
「…眠くないです」
伏せられていくその瞳を眺める。眠ることが得意ではないと告げたひかりの言葉を思い出す。
旅行の時も、私の家にいる時も、体調不良のせいもあったがよく眠っていたので失念しかけていた。
光は今まで、どれだけ眠れぬ夜を過ごしたのだろう。
「だが、眠らねば」
問いかけに、光は困ったように眉を潜めた。眠り方を忘れた子供のようにぐずっているようにも見えた。
「ここにいる」
頬を、髪を、何度も撫でる。撫でるたびにぽろぽろとその瞳から涙が零れ落ちていく。
「光、君のすぐ横にいる」
だからどうか、ほんのひと時でもその体を休めてはくれないか。
光の手が、添えるようにジャケットに触れて小さく襟の端を摘んだ。少しでも身動いだら離れてしまいそうなほど小さく摘まれたそれは、自ら縋ることができない君が必死に伸ばした手。
「…このままでも、いいですか」
小さな問いかけに、その手を包み込むことで答える。
その体が少しでも寝やすいように、膝を少し開いて膝と膝の間にその体を下ろした。光も寝やすい場所を探すようにもぞりと動くので、少し体を浮かしてジャケットを脱ぎ去りその膝にかけてやった。
靴を脱いでソファの上で片膝を立てて、その背をもたれかからせる。
「…つらく、ないですか?」
「平気だ」
落ちないように肩を抱いて、もう片方の手で頬を優しく撫でた。2度擦り寄ってから光は瞳を閉じる。
「…ごめん、なさい…少しだけ」
「…おやすみ、光」
その額に口付けを落とす間に、光は眠りの淵へと落ちていった。
光を抱いたまま、私も何度か小さく眠りに落ちながら夜が明け切るまでの時間を過ごす。
小さく上下する胸を見ながら、ヒュトロダエウスとの会話を思い返す。
『ハーデス、キミは馬鹿なのかな?』
深夜2時、電話をかけてくるにはずいぶんと酷い時間だなと思いながら、キーボードを叩く手を止めてスマートフォンを外部スピーカーに切り替えた。そして開口一番がこれである。
「なんだ、藪から棒に」
つい数時間前、我が家に資料と引き換えに原稿を取りに来ていた男の口から出るにはずいぶんといろいろ端折られた言葉に、こちらもむすりと言葉を返す。
『キミ、ほんと馬鹿だよね』
「だから、なにがだ」
主語がなさすぎてなにを言いたいのかがさっぱりわからない。渡した原稿が間違っていたのかとも思ったが、そもそもうちで一度目を通してから持って帰っている。間違えようがない。
『…ハーデス、ワタシ言ったよね?距離感を間違えるな、って』
そう言われてようやく、ヒュトロダエウスが光の話をしているのだと気づいた。
「主語をきちんと言え。なんだ、なんの話なんだ」
『お馬鹿ハーデス』
なぜこうも馬鹿馬鹿と罵倒されねばならぬのか。
「だからなんなんだ…」
『キミ、あれから光くんに会いに行ってないんだって?』
「は? …あぁ、お前帰りにバーに寄ったのか」
ひかりから聞いているならさっき面と向かっていたときに言うはずだ。
『ワタシはね、キミを焚きつけてしまったというのもあるけど、それ以上に光くんが心配だよ』
「いやだから、主語が足りん。なにを言いたいんだお前は」
冷めてしまったコーヒーを胃の中に流し込みながら、ヒュトロダエウスにしては珍しく言葉が足りない様に首を捻る。
『言ったよね? 距離感を間違えるな、って』
再度落とされた言葉に、違和感を感じる。
この2週間と少し、年末進行も重なってずいぶんと忙しかった。買い物に行く時間すら惜しく、ネットスーパーと店屋物で食いつなぐ程度には時間が足りなかった。それはヒュトロダエウスも知っているはずだ。バーに行く時間が取れるはずもない、と。
会いたくて会いたくて仕方なかったが、会ってしまったら離したくなくなる事を理解していたので、互いにアドレスを交換したメッセージアプリに、写真を送ることにした。送る時間も送ったものもまちまちなので返事は期待していない。ただ既読マークがついて見てくれたんだなとわかるだけで、心が和んだ。
『お馬鹿ハーデス』
スピーカーの向こうのヒュトロダエウスが唇を尖らせているのがまざまざと脳裏に浮かんだ。
『光くんは、キミを待っていたよ』
「…は?」
そんなことを人に話す子ではない。ヒュトロダエウスとはひかりを通じて仲良くなったと言っても、彼はまだ警戒を解いていない。
「なんで、そう思うんだ」
『むしろなんでそう思わないの』
「…お前には」
『関係ないとは言わせないからね?』
ぴろりん、と軽快な音がなる。メッセージの受信だ。開いて、添付された画像を見て、息を飲む。
『ねぇ、これ見てもキミが正しいと言える?』
スピーカーの向こうの声が遠くに聞こえた。
隠し撮りしたのだろうか、こちらを見ずに手元を見ている光の横顔。白い肌に、酷く濃くなったクマ、やつれてこけた頬。画面越しにもわかる覇気のない笑顔。
『たぶんだけど、光くん、キミと離れてから毎日お店を開けてキミを待っているよ』
「そんな…」
『距離感を間違えるなって言ったよね? ハーデス、キミはちょっと駆け足で階段を昇りすぎている。光くんは全くついていけてないよ』
親は頼れず、妹とは一定距離を常に置き、親しい友人はおらず、《普通》がわからないと寂しく笑った光。
『元々眠れない子なんだろう? この様子だと、また倒れるぞ』
「…いや、でも」
『ハーデス! しっかりしろ!』
スピーカーの向こうで叫ぶヒュトロダエウスの声に、肩が震える。
『とにかく今すぐ行って、話をしてこい! 取り返しがつかなくなる前に!』
ヒュトロダエウスの普段の様子からは考えられないほどの強い言葉に、息を飲む。書きかけの文字を保存だけかけて立ち上がる。
『キミたちがちゃんと話ができることを祈っているよ』
ヒュトロダエウスはそれだけ告げて通話を切った。
私は玄関のコート掛けにかけたジャケットだけ羽織り、光の元へ駆け出した。
随分とやつれてしまったな、とその頬を優しく撫でてやる。掻き上げたままの髪を少しずつ解してやれば、感触がくすぐったいのか少し首を竦めた。
前髪をすっかり下ろしてしまうとやはり印象が変わった。どこか、眠る顔が幼く見える。
すぅすぅと小さな寝息が愛おしい。
頬をなぞって、こぼれた涙の跡をなぞる。泣かせたいわけじゃないのに、どうにもうまくいかない。笑ってほしいと願っても君はいつもゆるく首を振る。
眠ることへの罪悪感のように、時折その眉根が寄る。何度も何度も、頬を撫でる。
(あぁ、ほら、もう離したくない)
腕の中で不器用に眠る光を離したくないと、駄々をこねたくなる自分に苦笑いしかできない。こんな風に誰かに独占欲を抱くことになるだなんて、思っても見なかった。
「……んぅ…」
ぐずるように腕の中で蠢いてから、光の瞳がぼんやりと開かれる。瞬きをしながらこちらを見上げてくる。
「まだ、寝てても」
小さく声をかけると、光は首を横に振った。体を離そうとするのを思わず腕の中に抱き締め直すことで止めてしまう。
「…ハーデス、さん、飲み物、だけ」
ゆっくりと出された声が少し掠れている。腕の力を抜くと、体を起こした光がカウンターの向こうへ歩いていく。
ぼんやりと眺めていると、グラスを差し出された。
「麦茶、です」
受け取って流し込んで、自分の喉も随分乾いていたのだなと思い知る。飲み干したグラスが光の手に回収される。
カウンターに自分の分と合わせてグラスを置いてから、光はぼんやりと三つ編みに結んだままの髪をいじっている。
「光」
ソファをとんとんと2回叩けば、引き寄せられるように私の横へ座った。隙間は、開いていない。
投げ出されたままの手を掬い取って指を絡めるように繋ぐ。光の瞳が私を見ている。
「…眠くはないか?」
問いかけには緩く首を振られる。目の下のクマは消える気配はないけれど、その表情が随分と和らいでいることを感じとれて安堵の息を漏らす。
「…ハーデス、さん、どうして、ここに」
なにから聞こうか迷った光はどうして、から始めることにしたようだ。
「説教を、されてしまってね」
「お説教…?」
首を傾げる光に肩を竦めてみせる。
一度繋いだ手を離して光を抱き上げても、抵抗はなかった。自分の腕の中に抱え込むように座らせて、その後頭部に顔を埋めた。ぴたりと寄り添う私の胸に、彼の背がもぞりと動いて鼓動を伝えてくる。
息を吸い込むと、光の少し甘い体臭が鼻腔に広がった。
「距離感を間違えるな、と」
行儀良く両の手を膝の上に置いている、その手を包むように掴んだ。
「…距離感?」
「段階をすっ飛ばしすぎて、光を置いてけぼりにしていると、叱られたよ」
光が腕の中で身動いで、首を捻った。
「よく、わからないです」
「だろうなぁ」
髪に顔を埋めたまま笑えば、くすぐったいと首を竦められてしまった。
「光」
その髪に顔を埋めて擦り寄れば、ほんの少しだけ体に圧がかかる。寄りかかられるその重みが心地良い。
「好きだよ」
落とした言葉に光の肩がびくりと跳ねた。君が返せないことを知っていて告げる私は卑怯だ。
「…はい」
小さく肯定だけが返ってきた。
「会えば離したくないと思ってしまうから、ここに来れなかった」
「…え?」
「仕事が立て込んで少しイライラもしていたからね、なにをしでかすかわからなかった」
光がこちらを見ようと体を動かすのを上から圧をかけることで止めた。今はあまり、顔を見られたくない。
「…光のことになると、周りが見えなくなる」
頭の上に顎をぽすりと置くと光が見上げようと少しだけ首を動かした。
「だからせめて、繋がっていると伝えたくて写真を送ったのだけれど…逆に寂しい思いをさせてしまったね」
「ハーデス、さん…」
返事は期待していなかった。それでも送り続けた。ただのエゴだと知りながら。
光が腕の中で身動いでいる。
そっと体を離せば、光がこちらを振り返った。体を浮かせて、座面に膝を沈めて、私を正面から見ている。
(膝立ちだと流石に光を見上げることになるのだな)
こんな風に光がじっと見つめてきたことはなかったので驚く自分と、何故か冷静に関係のないことを考える自分のギャップが可笑しかった。
おずおずと確かめるように光の両手が私の肩に触れる。
「…写真、嬉しかったです」
肩に触れた手が、首を通って頬を撫でる。その瞳に涙が溜まっていく。
「…ごめんなさい…泣きたいわけじゃ、ないのに」
ぱたりと落ちた滴の音と同じくらい小さな声で、光は言葉を落とす。
「待っていたのも、眠れないのも、僕が悪いだけです…ハーデス、さんは、なにも悪くない」
薄く笑うその笑顔が酷く寂しげで胸が痛んだ。
「顔が見れて、良かった」
するりと離れるその手を思わず掴んだ。離したら遠くに行ってしまいそうで、その腰を抱き寄せた。
「ハーデス、さん?」
「離したくない」
告げれば、光は少しだけ悩むような、迷うような表情をした。
肩に触れたままの指が、とんとんと肩を叩いた。恥ずかし気に光の膝が浮き上がって、私の太ももを跨いだ。膝をぴたりと合わせてやれば、その上にそっと座り込む。目線が、会う。
「いい、ですよ」
光は言葉少なに自らを差し出していく。そうすることが当然であるかのように、そうすることでようやく手を伸ばせると呟くように。
そっと腰と背中に手を回して抱き寄せれば、私の肩口に光の頬が擦り寄った。
腕の中のぬくもりを離したくなくて、でも強くは抱きしめきれなくて、何度もその背を撫でた。
「好きだ」
「…はい」
腕の中で大人しく擦り寄る光の姿に、ヒュトロダエウスが怒った理由がすとんと腑に落ちていく。
「もっと、時間をかけるべきだったな」
「…?」
光が首を捻ると、その唇が首元をくすぐった。
「…自分の性急さに呆れているところだ」
「…ハーデス、さん?」
ゆっくりと顔を上げる光の瞳をじっと見つめる。色素の薄い瞳がきょとりと私を見ている。
「君のことを考えず…私の欲ばかり押し付けた」
告げた言葉に、光は首を振った。
「それで、いいです」
そうされることしか知らないと告げる光は、私の欲を小さな体で受け止めてくれるけれど。
「私が、厭なんだ」
そう告げれば、やはり困ったように眉根を寄せられてしまう。
「ハーデス、さん」
光の瞳が優しく歪む。どこか悲し気な、困ったような、でも優しく微笑むような表情で、笑う。
「嫌なら、嫌って…言えます。ハーデス、さんのは、嫌じゃない」
そうやって、私を甘やかそうとする。
「僕で、したい事、していいです。たまに、こうしてくれれば、それで」
今一度肩口に顔を埋めて、光は小さく笑った。ほんの少しだけ勇気を出して手を伸ばしたそれがあまりにも小さい希望で、目の前がくらくらする。
ずぶずぶと沼にはまり込むような感覚が、擦り寄るその熱が、心地良すぎて泣きそうだ。
「っ、だが…君はまだ、怖いだろう?」
この熱に身を任せて光を抱いてしまえば確かに私の欲は満たされるだろう。だが、拭いきれない記憶を持つこの子はどうなる?
「怖く、ないです」
「声が、聞こえるのだろう」
ぴくりと肩が跳ねてから小さく、平気です、と呟くその声が震えていることに気づかないほど、愚かではない。
「光」
「僕には…僕にはこれしかないから」
光の声が震えている。濡れる肩口から、震える体から君が泣いているのを否が応にも知らされる。
「ハーデス、さんに、渡せるものが、これしかないから」
光の手がきつく私の首元に巻き付いた。引き剥がそうとした私を拒むように。
「だから、僕を思うなら、酷くしてください」
くらくらする。こんなに強い思いは知らない。こんなに強い思いを秘めさせていたことを、知らなかった。
どうすればいいか、をきっと1人でずっと考えていたのだろう。《普通》がわからないと首を傾げていた光が考えて考えて導き出した、歪んだ答え。
「…君を、思うから、酷くなんてできない」
抱え込むように強く抱き寄せる。
できない。できるはずがない。
全身でこんなに《好き》を表すのに、そう言うことすらできない光を、過去に怯えて手を伸ばすことすらできない光を、酷くすることなんてできない。
「光が…好きだから」
この思いに甘えきっていいはずがない。
「…したくない、ですか」
光にとっての《普通》の歪みに思わず目を瞑る。どちらかしかない、そんな世界しか知らない訳ではないはずなのに。
「したいから、できない」
君を好きだから、君に酷いことをしたくないから、できない。人はマシンではない。0か1かでは世界は測れない。
「僕では、できない」
「違う、そうじゃない」
「…僕だから、できない?」
どうしても原因を自分へと落とし込んでいくその姿に胸が痛くなる。光の生きてきた道の上に横たわる圧倒的なまでの《自己否定感》が、彼の歩みを阻害している。
「光」
「っ、はい…」
ゆっくりと体を起こして、正面から目を合わせて真っ直ぐ見つめれば、潤んだ瞳がこちらを見た。
「教えて欲しい…光は、したいの?」
敢えて今まで触れてこなかった。触れようとして…触れられなかった。こちらの与える快楽に素直に蕩けていく様に違和感を覚えながら、聞けなかった。
「…ハーデス、さんが、したいなら」
「違う、私ではなくて、光はしたいの?」
触れて欲しいと、思っているのだろうか。私と同じように、触れ合って溶け合うようなあの感覚を共有したいと思っているのだろうか。
「僕……?」
考えたこともない、という顔をしている。あぁ、歪みの根本はここだ。光の心がついてきていないんだ。
「光は、したい?」
「…僕…は」
迷うような視線は彷徨っていく。おそらく光自身も考えたことのなかった自分の気持ち。
「…私は…こうやって光と話したり触れ合ったりするのも好きなんだ」
頬を撫でて横髪を耳の後ろへと梳いてやれば、少し赤く染まる耳がよく見えた。
「光は?」
「…僕、も好きです」
光の手がおそるおそる伸びてきて、私の白い方の髪に触れた。確かめるように指に絡ませる様子に締め付けられた胸が少し緩んだ。
「他は?」
「…話すのも、好きです」
「ここで?」
わざと耳元で低く囁けば、ひゃんっと小さく啼いた。
「ね、光。ここで話すの、好き?」
「ひぅ、っん、喋らな…っ」
「教えて?」
ふっと耳に息を吹きかければ、光の体がびくびくと震えた。
「ふぁっ、うっ、好き、だけどっ、もたない…」
「なるほど」
リップ音を耳元で立ててから顔を離せば、真っ赤になったまま耳を押さえる光がこちらを見ていた。
「耳、好きだな」
「っふ、うぅ…」
真っ赤になって俯く顔を持ち上げるように頬に手を添える。潤んだ瞳がゆらゆら揺れながら私を見ている。
「ね、他は?」
あやすように頬を撫でて額に口づけを落とせばびくりと震えた光がじっと私を見ている。
「…言え、ない」
何かを堪えるように口元に手を当ててふるふると首を振るのをじっと見つめる。
「言えない?」
「…これ以上、は、望んじゃ、いけない」
《好き》と言えない光の境界線はここだ。ここを崩さない限り、私は光に本当の意味で触れることができない。
「どうして?」
「…僕は、僕が、好きじゃないから」
「私は、光が好きだけど」
「…っしって、ます」
手の甲で口元を隠しながら視線を逸らそうとするその頬を、やんわりと制する。
「光は?」
これが誘導尋問だとわかってやっている。それでも、この壁を崩さないと光はまた同じ問題に行き当たる。
「光が、触れて欲しいなら、教えて」
手の甲をそっとおろさせて、とんとんとその唇を人差し指で叩く。
「知って、る、くせに」
「なるほど、そうきたか」
もう一度とんとんと唇をノックする。
「私ばかり…好きだと伝えるのは、寂しいじゃないか」
言葉が足りない君でもこれは伝えられるだろう? 口に出さなきゃ意味がない。その壁を崩すためには、言葉として発して認識しないと。
「ね、光…私が、好き?」
「っ、う」
とんとんと規則正しく叩かれる唇から迷うような声が漏れる。視線が彷徨って、私から逸らされる。それぐらいは許容しよう。
「…好き、だけど、同じくらい、僕もぅんっ」
最後までは言い切らせない。唇を唇で塞いで言葉を喉の奥に飲み込む。
「後半は、いらないな」
唇を離してそう告げれば、戸惑うように視線が揺れる。
「好き、だけで、いい」
唇の端に何度も口付けを落とす。頬を優しく撫でてやれば、強張って震えた体から力が抜けていく。
「っでも…」
「嫌いと言えなくなるぐらい、私が好きでいてやる」
鼻先を触れ合わせてそう告げれば、ぽかんとして固まった後首まで真っ赤になった。
「っ、は、です、さ」
恥ずかしさで震えるその唇の端にもう一度口付ける。
「私は欲深いし執念深いからな、全部じゃないと気がすまん」
「っふ、う?」
「光、私が好き?」
瞳を見つめて唇を触れるギリギリまで近づければ、揺れる瞳がきゅっと閉じる。
「教えて、光」
言葉を発するたびにさわりさわりと唇が触れ合う。柔らかなその感触に酔いしれる。
「っ…す、き」
「よく言えました」
褒美のように何度も角度を変えて口付けを与える。口内を弄って舌を絡めて舐めれば、びくりとその体が跳ねる。
「光に好きを教えるのが私で光栄だ」
「っひぅ、ん、ふぅ」
口付けの合間に何度も好きと囁いて、好きと言わせる。
頑なに否定するなら、それよりたくさん肯定すればいい。好きと気持ちいいで満たしてしまえばいい。嫌いという言葉を好きで挟んで、オセロのように裏返してしまえばいい。
「好きだよ、光」
口付けの合間に何度も囁く。囁いて、口付けて、囁く。
何度もその口から好きと言わせてその度にぞくりと腰の奥に痺れが宿る。
「っふ、好き…っ好き…」
重ね合う唇の感触と、舐めあげる口内の快感と、途切れていく呼吸と思考に、白く塗り潰されながらうわ言のように光が何度も言えなかった言葉を呟く。その度によく出来ましたと褒めては深く口付ける。
何度目かの途切れ途切れの好きに唇を離せば、光はくたりと私にもたれかかった。肩でする息が浅く短い。
(少し、やりすぎたか)
「光、大丈夫か?」
その背を何度も撫でると、うぅと呻く声がする。恥ずかし気に震える体を何度と撫でて落ち着かせる。
「っ、う…はずか、し」
顔を胸元に押し付けて見えないようにしているが、耳も首も真っ赤だ。
「もっと、恥ずかしいこともするのに?」
「っふ、う?」
髪に顔を埋めてわざとすんすんと音を立ててやれば、びくびくとあからさまに震える。
怯えではない、期待の震えにほくそ笑む。
「したい、だろ?」
耳の後ろに声を落としてやれば、びくりと跳ねて震えた。
「ね、光も、したいだろ?」
ゆっくり低く落とすように声を出せば、光の口から少し高い喘ぎ声が漏れた。
「ひぁ、っう、あぁぁ」
「教えて」
ちゅっとリップ音を鳴らせば、これ以上言葉は出ないとこくこくと首が縦に振られた。
ゆっくりとその体を起こさせて肩口に頭を乗せてやる。まだ浅い息を繰り返す背を何度も撫でる。
「今日は、こうしてようか」
肩口に頭を埋めさせるように撫でてやれば、小さく息を吐いて光は擦り寄ってきた。
膝の上でゆるりと落ち着いていく光の背中を撫でながら、私はそっとその頭に頬を寄せた。
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2019.12.10.初出