「荷物はこれだけか?」
僕の手からダッフルバックを取り車のトランクに置きながらハーデスは僕に尋ねてきた。
「はい」
「よし、なら行こうか」
どうしてこんなことになっているのか、僕は脳内を沸騰させながら彼の進めるまま助手席に乗り込んだ。
行ってみたい、と素直に口に出してしまったのが運の尽きだったのだろうか。
あの後あれよあれよという間に日程も宿泊先も決まって、移動はハーデスの取材も兼ねているから車のがいいだろうと免許のない僕の代わりにハーデスが運転することになり、今まさに、横にいるわけで。
(ほんとうに、どうして、こうなった…?)
シートベルトを締めたことを確認されてから車はゆっくりと走り出す。
出かけるのも、誰かの車に乗るのも、いったいいつぶりだろうか。
ひかりには荷物の確認を何度もされたし、普段乗らないのだから一応酔い止めを飲めと渡されるまでした。妹に心配されるのも情けない。
ひかりから聞いたのか、ヒュトロダエウスとハーデスにも事細かにあれこれ心配されてしまった。もう30も超えてるというのに、重ね重ね情けない…。
自分が養子だということを理解していたので、両親にはわがままは言わないようにしていた。
まずこの目の色で、引き取った後も近所から色々言われただろうことは想像に難くなかったから、せめてそれ以外のことでは手を煩わせてはいけないと思っていたのだ。
引き取られてすぐの頃は家族旅行などに行った記憶もないわけではないが、どこに出かけても両親が奇異の目で見られることに耐えられず、次第にそういったものへの興味を無くしていた。
ましてその後養母に襲われたのだ。その状態で仲のいい家族ごっこができるほど僕の神経は図太くなかった。
ひかりが生まれてからは家族旅行も復活したようだったが、僕は既に進路を見据えなければいけない時だったので、ついていくことはなかった。
(そうだ、ひかりとは家族旅行すらしたことがないんだな…)
「…大丈夫か?」
「っ、はい」
黙り込んだままの僕を心配してハンドルを握ったままハーデスが声をかけてくれた。シートベルトを両手で握りしめたまま考え込んでた僕を横目で見て微笑んだ。
「高速に乗る前にコンビニでも寄っておくか」
「は、はい」
思い返せば、合宿や遠足、修学旅行といったものもこの目のことがありキャンセルしていた。本当に、旅行というものがはじめてにも等しいのだ。
コンビニの駐車場に車が滑り込む。
「飲み物と…飴とか、つまめるものを買っておくといい」
運転席から降り立つハーデスを追いかけるように、僕も車から降りた。
車はつつがなく高速を走り抜け、道中目立ったトラブルも乗り物酔いで苦しむ自分を見せることもなく、目的地の温泉街にある旅館にたどり着いた。
今回の旅行は2泊3日。今日は宿でゆっくりして、明日の午前中に展覧会、午後は取材、明後日の帰りがてらも取材…といった日程になっている。
「取材ばかりで申し訳ない」
とは言われたが、元々ハーデスの取材のついでに展覧会に来たのだ。むしろ取材の邪魔になってしまう方が問題である。
トランクから荷物を受け取って彼のあとに続けば、温かい旅館のエントランスが僕らを迎えた。ハーデスは迷わず受付へと向かっていく。どうするべきか、考えて足を止めた僕をハーデスが手招きした。
「予約していたエメトセルクですが」
受付にたつ旅館の人と話す様を隣で俯きながら聞く。陽の光が射す間は顔を上げていたくないのは今も昔も変わらない。ましてや、隣にはハーデスがいる。
(なんで、ハーデスがいるとこんな気持ちになるんだろう…)
「光、台帳に名前を」
「あ、はい」
渡されたペンで台帳に名前と住所を記入していく。一つ上のハーデスの文字が彼らしい力強さで書かれているのが目に入って少しだけ緊張した。
僕が台帳に書き込んだのを見届けて、ハーデスが声をかけてくれる。
「行こうか」
小さく頷いて僕はハーデスの後を追った。
通された客室は二人で泊まるには少し広く感じた。
和風の室内は木と畳の匂いが部屋いっぱいに漂い、広縁から望む小さな和風庭園には竹ともみじが影を作っていた。
仲居さんが温泉の営業時間と食事の時間を告げて去っていく。
「ほぼ休憩せずに来てしまって疲れただろ、少し休んでから温泉でも行くか」
さすがにハーデスは旅慣れしてるようで、自身の荷物を部屋の隅に置くと広縁の椅子に腰かけて足を延ばしている。
彼に倣う様に部屋の隅に荷物を置いて椅子に腰かけた。
「任せきりで、すみません…」
小さく呟いて恐縮していると向かいから小さな笑い声。
「私がしたくてしてるから気にするな」
顔を上げればそう言って柔らかく微笑まれてしまう。
旅慣れていないのもそうだが、あまりにも世間知らずな自分に恥じ入るしかない。
「そうだ」
ハーデスの声につられて顔を上げれば、口元に手を当てて何か考えている。
「あー…ひかりちゃんに言われたんだが…」
言いづらそうに何度か口を開いて閉じてしている。そんな仕草すら様になるのだから、大人の男というのはすごいなぁ、と関係のないことをつい考えてしまう。
「…光、温泉、大丈夫か?」
「……は、い?」
自分でもまぬけな声を出したと思う。
「いや、うん…共同浴場、なんだが…」
「…あ」
すっかりと脳内から失念していた。浮かれすぎだ。共同浴場ということは、隠すものが何もない。この目も、体も、隠しようがない。
「サングラス…をつけてはいったら、見えないですよね」
「怪我をするだろうからやめてくれ」
ハーデスの深いため息が色々なものをひっくるめて物語っている気がする。
「…一応、部屋風呂もあるが…」
「あぁ、じゃぁ、僕はそれで」
ほっと息を吐く僕の顔をハーデスはまだじぃっと見ている。
「ハーデス、さんは、気にせず行ってきてください」
僕の言葉で、彼は小さく息を吐いた。
「まぁ、仕方ないか…」
「す、すみません」
小さくなって俯いていると、立ち上がったハーデスがポンと僕の頭を撫でた。
「出来る限り早く戻ってくる」
「ゆ、ゆっくり、してください」
ひらりひらりと後ろ手を振りながら、ハーデスは自分の鞄を開き始めた。
お風呂に入りしばし歓談していれば食事の時間となった。地のものをふんだんに使った料理は見目もよく美味しかった。
「こういうのはやはり同じ飲食店業として気になるのかな」
「そう…ですね。でも、うちではできないことなので」
「確かに」
晩ご飯と同時に日本酒を飲んでいたハーデスは、食べ終わって広縁に移動してからもビールを飲んでいる。お店でも思ったが、ハーデスはかなり飲酒量が多い。それでいて酔った素振りはあまりないのだ。
「光は飲まないのか」
「僕は、大丈夫です」
何度かこのやり取りを繰り返して、最終的に僕が折れて1杯だけビールをいただく。
バーを経営しているのに何を言ってるんだと思われるかもしれないが、実はあまりアルコールには強くない。すぐに顔が赤くなってしまうのだ。お店で勧められても飲まないのはこのせいもある。
「……真っ赤、だな」
「ですよね…」
顔だけでなく手も赤い。自分で見てわかるのだからよっぽどだ。
「すまない、それで店で勧めても飲まなかったのか…」
「いえ、その、ごめんなさい…」
視界がふわふわする。あぁ、これは酔い始めているな、と頭の片隅で冷静な自分がぼんやり考えている。
「…大丈夫か?」
気がつくと、目の前にハーデスの顔があった。とろりとした蜂蜜のような金糸雀色の瞳がこちらを見ている。
「…大丈夫、です」
「うん、ダメだな」
酔っている奴ほど大丈夫と言うんだ、ハーデスはそう言いながら立ち上がると、すでに敷かれていた布団の手前側の掛け布団をめくった。
「ほら、もう横になってしまいなさい」
普段から着物を着なれているからだろうか、旅館の浴衣というミスマッチな柄の浴衣なのに、ハーデスが着るとピシリとしている。
入り口側の布団の上に正座したハーデスは、とんとんと布団を叩いた。
(あぁ、叩いたということは、そこに行かなきゃ)
ふらふらとした視界をなんとか真っ直ぐに整えながら、椅子から立ち上がってハーデスの目の前に同じように正座する。
「いや、そこで正座してどうする」
「え……んん…?」
首を傾げると視界が揺れる。
あぁ、ダメだ。浮かれてるところにアルコールを入れたから、回るのが早い。
「光」
「…うん…」
ハーデスの手が、伸びてきた、気がする。
(でももう、目を開けていられないや)
こくり、と自分の頭が下を向くのと同時に、僕の意識は闇の中にふわふわと落ちていった。
+++
「…そこで寝るか」
呟きを拾うものはいない。
光は私の目の前で正座したまま寝に入ってしまった。これは、正直、予想外だ。
倒れる前に、と光の体に手を伸ばす。肩に触れただけでびくりとその体が跳ねた。
出来る限りゆっくりと、横抱きにして布団の上に横たえらせる。
サイズの大きかった浴衣の胸元がはだけてしまったのを治そうとして、違和感を感じる。
悪いと思いつつそっと浴衣の前をほんの少し開けて、息を飲んだ。
「…嘘、だろ」
鳩尾の下、普通に服を着ていれば見えないであろう箇所に残る打撲痕。それと合わせて小さな傷がいくつも。
真新しい傷もあれば、古い傷もある。
そっと浴衣を直して掛け布団をかけてから、その寝顔を見つめた。
脳内に、旅行前にひかりに告げられたことが蘇る。
「たぶん、兄さんは温泉とか嫌がると思います」
「…何故?」
駅前のコーヒーショップで資料と交換に原稿を渡しながら、ひかりは紅茶を飲んでいた。
「傷が、あるから」
紅茶のカップをトレーの上に置きながら、ひかりは窓の外を見つめている。
「私も、最近見たわけじゃないんですけど…まだ実家にいた頃に何度か見ていて」
「…いじめ、か」
「わかりやすいですよね。自分たちと違うから、力で訴えて傷を負わせるなんて」
静かだけれど、強い憤りを感じる声だった。
「たぶん、消えてない傷もあると思います…兄さん、浮かれててたぶんそこまで考えてないから…」
「そうか…わかった、私の方でそれとなく注意しておこう」
「すみません…あと、たぶんほっといたら寝ないと思うんで、お酒をほんの少し飲ませちゃってください。アルコール強くないんで、それで寝ちゃうと思います」
「何から何までお見通しだな」
ひかりは、光と同じ寂しそうな笑顔を浮かべた。
「兄さんが私を心配するように、私も兄さんが心配なんです」
(だが、ここまでとは思わなかった)
普段よりもずいぶん赤い顔のまますぅすぅと寝息を立てて眠る顔は、やはりどこか幼い。
前髪を払うように頭を撫でてやれば、小さく身動いだ。
普段から怯えるような視線を時折していたのを見ていた。今日も、人前に出るたびに俯いては小さくなっていた。
幼い頃のトラウマが、彼の歩みを鈍らせている。
「…んぅ…」
身動いだ光がこてりとこちら側へ寝返りを打つ。
「…おやすみ、光」
今一度頭を撫でてから、私も布団の中へ潜り込んだ。
「本当に、すみませんでした…」
朝食は朝8時から、その1時間前に起きた私は30分ほど光の寝顔を堪能したのち、彼を揺り起こした。
真っ青になった光は飛び起きて土下座をした。そして開口一番のセリフがこれである。
「気にしてないから、ほら、顔を上げて」
「うぅ…情けない…」
しょぼくれているその浴衣が飛び起きた影響ではだけている。昨夜は傷痕しか見ていなかったが、白い肌はなんというか、目の毒だ。
「もう直ぐ朝食だし、顔を洗って着替えておいで」
「はい…」
あからさまに気落ちしたまま、光は着替えを持って洗面所へと向かった。
朝食を食べてから、軽く荷物をまとめて部屋を後にする。
「…昨日と、サングラス変えたのか?」
「どのくらい明るいか、わからないので…」
普段よりも暗いレンズの向こうで、色素の薄い瞳がきょときょとと動いている。
「そうか」
ぽんぽんと頭を叩くように撫でてやれば、その頬が少し赤くなった。
「まずは展覧会、そのあと私の取材でいいかな」
「は、はい。よろしくお願いします」
車へ向かう私の後を光は小さな足音をさせてついてきた。
展覧会の会場となった美術館の入り口で、さっそく出版社の人間に捕まった。
「先生、今日はご足労いただきありがとうございます」
先生、の言葉に展覧会スタッフのみならずちらほらと入り始めていた客もこちらを向く。見渡せば、光が俯いたまま徐々に私から離れる姿が見える。
「今日はオフなので…」
「上司にもよろしくと言われていますので…」
こちらも引く気はないらしい。地方開催の花形として扱いたい気持ちはわかる。だが、今はそっとしておいて欲しい。
「今日は作家としてきているわけではないので」
「ですが…」
あちらとこちらを同時に見ている間に、光の姿を見失う。ぐるりと見渡しても、見当たらない。
「先生?」
「失礼、今日は連れがいるので」
これ以上付き纏わられても困る、と端的に同行者がいると伝えればようやく編集部の人間は私から離れた。まだ幾ばくか残る野次馬の向こうに目を配らせる。
展示ブース入り口の横にある椅子に腰掛ける光の姿を見つけてほっと息を吐く。
近づいて、思わず足を止める。光は俯いたままその目を閉じていた。
「…光? 大丈夫か?」
その前にしゃがみこめば、薄く瞳が開く。
「ハー…エメトセルク、さん」
「ハーデスでいい。気分でも悪いのか?」
「大丈夫です」
光は小さく笑った。
「すこし、眩しかったので」
「あぁ…ここは入り口側が全面ガラス張りだからか…無理はしないで」
「はい」
立ち上がった私に合わせて、光も立ち上がる。まだ俯いたままだ。
「光の好きなペースで観ておいで。観終わったら…また、ここに」
「はい」
こくりと頷いて、薄暗い展示ブースへと光は足を進めた。その後ろを付かず離れずの距離で歩く。
展示内容は出版社の歴史と作家陣の紹介、印刷会社の説明と印刷方式の展示、さらに作家の直筆原稿や資料展示が主だった。
光はそのひとつひとつをじっくりと観て回っている。時折興味を引くものがあれば、サングラスを傾けてじっとその瞳で見つめている。本を読んでいる時と同じくらい集中しているのか、周りの音は耳に入ってないようだ。
そんな光しか見ていない私の方には、否が応でも周りの音が耳に入ってくる。ヒソヒソとした話し声のうち、こちらに向けられた好奇の目は痛いほど感じる。
ガタイのいい男が小柄な青年の後ろについて回っているのだ、それだけでも目立つのだろう。目立ちたいわけではないのだが。
その小柄な青年は薄暗い展示場所だというのに濃い色のサングラスをつけたまま。時折傾けた時に見える色素の薄い瞳が興味を引くのだろう。
(これが、光のいる世界か)
私たちの住んでいる場所はそこそこ人並みも多く、その中に埋没してしまえばそこまで目立つこともない。
だが、ここは地方都市。閉鎖的とまではいかないが珍しいものが来ると目立ってしまう。
彼は幼い頃から、常に奇異の目で見られていたのだろう。その心労を思えば、思わず小さな握りこぶしを握ってしまう。
ゆっくりと見ていた光がぴたりと足を止めた。食い入るように見ていたのは、私の直筆原稿の写しだった。
(本当に用意したのか)
普段はデジタルで原稿作成しているのに、時折手書き原稿でと無茶を告げるヒュトロダエウスの顔を思い浮かべる。こんな意図があったとは思わなかった。
横目でチラリと光の顔を見れば、サングラスを傾けてキラキラとした瞳でじっと原稿を見ている。あまりにも真剣なその表情は普段よりも幼く見えて、私はその横顔を見ながら微笑んだ。
(まぁ…私が恥ずかしい思いをして光が喜ぶならそれでいいか)
ゆっくりと文字を追うその瞳を私はそっと見つめていた。
買ったばかりの展覧会図録を両手で抱えて助手席に座る光を連れて、幾つかの取材先を訪れた。
彼は邪魔にならないようにと、目だけはきょろきょろと周囲を興味深げに見渡しながら、大人しく私の後ろに付き従っていた。
時折地のものを見せたり説明したり食べさせたりすれば、その度に素直に感心し感想を述べてくれる。私にはないそのキラキラとした視点は取材を大きく進めるための足がかりになった。
「っと、着いた。ここだ」
「…ここで最後ですか?」
助手席から立ち上がりながら、光が私に告げる。時刻は16時。夕焼けが辺りを照らしている。
「いや、取材はさっきのが最後だ」
「え…?」
首を捻った光は建屋の看板を見つめている。
「…温泉?」
「あぁ」
「でも、あの、僕、温泉は…」
次第に目線が下がって声も小さくなっていくのを、目の前に立って覗き込むことで制する。
「大丈夫」
微笑んでやれば、戸惑うように視線が彷徨う。
思わず、その手を掴んだ。
「っ!」
「さ、行こう」
手を繋いだまま歩き出せば、光は引きずられるように私についてきた。
受付で予約していた旨を告げると、バスタオルとフェイスタオル、小さな鍵を渡される。
タオルをまだ戸惑う光に渡して、ついておいでと促す。
「あの、ハーデス、さん」
「こっちこっち」
いくつか角を曲がってたどり着いた突き当たりの看板を見て、光が首を横に傾げた。
「家族…風呂?」
「貸し切り露天風呂だよ」
小さな鍵を差し込んで回せば、カチリと音がして扉が開く。
「貸し切り…」
まだ首を傾げる光を押し込んで鍵を締める。
「ここなら、入れるだろ?」
これはこれで私の忍耐を試されているとは思うが…耐えるしかない。
「…僕のせい、ですか?」
「ん?」
今度は私が首を傾げる番だった。
「ごめんなさい…僕、やっぱりお邪魔だったんじゃ…」
「っ、まてまて、なんでそうなった」
「僕のせいで、ハーデス、さんが」
「違う違う」
私は光と視線を合わせるように腰を屈めた。
「せっかく温泉街に来たんだし、部屋風呂じゃなくてちゃんと温泉に浸かって欲しかったんだ」
どちらかといえば私の我儘だ。
昨日私だけで温泉に入る前に調べて予約を入れていたのだ。
「でも、あの…」
光の視線がどんどん下がっていく。流石に強引にことを運びすぎたかと思い言葉を発する前に、光が小さく呟いた。
「僕、なにも、返せない」
言葉の足りない光の言葉を掬い上げるように、私は光の手からタオルをそっと受け取った。
「充分返してもらってるさ」
「なにも、なにも…してない、です」
脱衣籠にタオルを置く私の背中に小さな声が届く。
「…私と温泉は嫌かな?」
「あの、そうじゃなくて…」
あぁ、そういう意味では嫌われてないらしい。
「それだけで充分だ」
私はそれだけ告げて鞄を下ろした。まだ戸惑う光の方は振り向かないままに、言葉を繋げる。
「どちらかというと私の我が儘だよ。せっかくの旅行なのに観光地に連れていくでもなく取材ありきになってしまったからね」
「元々、そういう予定でしたし…」
「もう少し思い出を作りたかったのさ」
服を脱ぎながら告げれば、光の問いかける声がすこし上向いた。
「思い出…?」
「あぁ」
光が逡巡している。上半身だけ脱いで脱衣籠に入れ込んでから、私は改めて光に向き直った。
「おじさんとの思い出が温泉に入った、なのは嫌かな?」
光は大きく瞳を見開いて私を見つめながらふるふると首を横に振った。
「…ハーデス、さん、まだおじさんって歳じゃ…」
「世間では40過ぎたらおじさんだし初老だよ」
ぽんぽんと頭を撫でてやれば、小さく硬くなっていた体から力が抜けたのがわかった。
「先に入ってるから、ゆっくりおいで」
背中を向けてそう告げれば、小さな声で、はい、と聞こえた。
濁り湯の温泉でよかった、と心から思った。
半露天の温泉は円形で、私はドアに背を向けて入っていた。紅葉とせせらぎの見える小さいけれど雰囲気のいい場所だった。
「うわっ」
ドアを開いた光の小さな声が聞こえる。
「大丈夫か?」
そちらは見ずに声をかける。見ない、絶対に見ない。
「思ったより寒くて…」
「あぁ、早くおいで」
ぺたぺたと足音が聞こえる。私から2人分ほど離れたところに彼の手が伸びてきて、お湯をかき混ぜる。
「し、失礼します…」
不自然にならない程度に視線をずらしながら、彼が湯船に入るのを待った。
お湯が揺れて、増えた体積分だけ押し流されていく。
小さく光がため息を吐いたのを聞いてから、彼の方へと視線を戻した。
一段高くなっている場所に座っているため、鳩尾より下の傷は見えづらくなっている。多分そこを一番気にするだろうと思っていたので、胸を撫で下ろす。
「寒いなら一回肩まで入ってしまいなさい」
そう告げれば、光はおずおずと湯船の中へ体を沈めていく。
その背中を見て、思わず眉をしかめる。体の正面側とは比較にならない量の傷痕が痛々しく小さな背中に散らばっていた。
「…ハーデス、さんも」
「あ、あぁ」
声をかけられて、私も湯船に体を沈める。光はその腕をお湯の中で一杯に伸ばしていた。
「いつぶりだろう…」
ぼんやりと呟かれた足りない言葉を反芻する。
「そうか、銭湯とかも」
「行かない、です」
夕日は落ちて、空が濃紺へと変化している。このぐらいまで光量が下がってしまえば、光の目も大丈夫だろう。
「…小さい頃よりは、だいぶ良くなったんです」
幼い子供は瞳からの情報をシャットアウトする術を知らず、余分な光と情報を取り込みやすいと聞いたことがある。
「視力は」
「そっちは悪くないんですけど…」
薄く苦笑するその顔は小さい頃を思い出しているのだろうか。
「ただ、免許とかはダメと」
「あぁ…正面からのライトとかキツイものな」
正常に見えている者でもあれはかなり辛いのだ。過剰に受け取りやすい彼にはさらに辛いものなるだろう。
「バイクとか、乗ってみたかったです」
「ははっ、まぁ憧れはあるな」
いくつになっても男は男。憧れるものにはそう大差はないようだ。
光の横顔を眺める。伏せ気味な色素の薄い瞳は遠くを見つめている。その瞳に映る世界はどんな色をしているのだろうかとぼんやりと考える。
湯につかないよう小さくまとめられた髪の隙間から見えるうなじにそっと手を伸ばす。
「ひぁっ」
いたずら心でなぞれば、すこし高い可愛らしい声がその唇から漏れる。
「っすまん」
「い、いえ…」
思わず手を離しながら謝れば、なぞられたところを抑えながら、光が赤くなった。
濁り湯で、本当に、よかった。
「…ハーデス、さんは」
「ん?」
まだすこし赤い顔のまま、光はこちらを見ずに呟くように言葉を紡ぐ。
「よく、触れてきます」
「…そうだろうか」
自覚はないのだが…。
「他の、人にも…?」
「まさか」
光にも触れている自覚がないのに、他の人に自分から触れるはずもなく。
というよりも。
「私は、人嫌いだからね」
「え…」
「ヒュトロダエウスによく言われたよ。キミは人嫌いがすぎる、とね」
フフフと笑う悪友を思い出す。人が嫌いなわけではないのだが、付き合うべき人間は厳選しているのを自覚している。
「自分のテリトリーというのかな。私はどうも人よりそれが狭いらしい。狭いし頑固で硬いと」
学生時代に近づこうとしてきた人間を弾いていた自覚は、ある。そんな私の性質をモノともせずに近づいて、私の中に居場所を作り上げた最初の人間がヒュトロダエウスだ。
「歳をとって丸くなったとは思うが…元から余りつるんで行動というのが好きではなくてね」
光は私をじっと見ている。空の色と彼の髪の色が混ざり合って溶けてしまいそうだ。
「この歳までろくな友人もいないし独り身なのもそのせいさ」
若い頃はそれなりに女性にも声をかけられたが、どうにも付き合うという行為自体が好きになれなかった。結果、付き合った後に振るぐらいなら、最初から振った方が後腐れもないだろうと断り続けて今に至る。
恋すら知らなかったんだ、私は。
「だから、光だけだ」
告げた言葉に、光が耳まで赤くなった。その瞳が彷徨ってから、私をじっと見ている。見定めようと、しているのだろうか。
「触れても、いいかな」
そっと手を差し出してみる。
小さく身動いだ後、光はそっと私の手に頬を寄せてきた。てっきり手を伸ばしてくるかと思っていたので、私が驚く番だった。
ぴとり、と光の頬と私の手が合わさる。外気に晒された頬は冷たく、私の手の熱を奪っていく。
「怖くないか」
触れると怖がる、とひかりが告げてきたあの時を思い出す。今でも、私から触れれば怯えるように震える時がある。怖がらせたくなくて、私は触れることを躊躇してしまう。
「…怖くないです」
瞳を閉じたまま、光は小さく言葉を落とした。
私はもう片方の手で、そっと湯の中にある光の腕に触れる。ぴくりと腕が震えて、それでも拒絶はなかった。
ゆっくりと腕から手の甲へと指を滑らせて、彼の指に自分の指を重ねる。
少しずつ湯の中で体を滑らせるように光へと寄せていく。触れ合わないけれど目の前の距離で、そっと光の指に私の指を絡めた。
光が薄く瞳を開いて私を見上げてくる。
「厭だったら、言ってくれ」
短く告げて、絡めた指をそっと持ち上げる。手のひらを合わせるように指を絡めて手を繋げば、光がそちらを見るそぶりをして頬を赤く染めた。濁り湯の向こうで見えないが、確かに感じる互いの手の感触に、知らず私も微笑んでいた。
頬に添えるだけだった手を動かして、そっと撫でる。髭の生えていない肌はつるりとしていて手触りが良い。
滑らせるように頬をなぞれば、こちらを見る瞳が細められた。まだ少しぎこちないその表情が、全身を預けきれない様子が、愛おしく感じる。
頬を撫でていた指を顎へと滑らせる。輪郭を確かめるように撫でた指が熱を持つ。
光の空いた手が持ち上がり、私の頬を撫でようとして体のバランスを崩す。
「おっと…」
慌てて体を寄せて受け止めれば、持ち上がった手がごく自然に私の胸を支えとする。
とさりとその頭が私の肩に触れ、湯が揺れる。
確かめるように光の指が私の胸元を撫でて、ゆっくりと鎖骨から首筋へと伸びてくる。
今一度、光の頬へと指を添える。見下ろせば、胸元に触れる指を追いかけて光の視線が持ち上がり、交わる。色の薄い瞳の中に瞬く星を見た気がした。
その星を閉じ込めたくて、光の顎に指を添えて上向かせる。ちらりちらりと星が揺れる。
確かめるように二度撫でれば、光の指が首筋から私の頬へと上ってくる。互いの指先が互いの熱を伝えてくる。
視線を交わらせ、導かれるように、唇を重ねた。揺れた星が瞬いて、閉じた。
+++
どうやって部屋まで帰ってきたのか、それすら朧気で。
気が付いたら、部屋の前にいた。足元には自分のバッグと持たされたお土産がある。
見上げた視線の先に金糸雀色の瞳が柔らかく弧を描いていた。
頬を撫でる手は、もう怖くなかった。
あんなに人に触れられるのが嫌だったのに、どこまでも優しく僕を撫でてくれるこの手を拒めなかった。
確かめるように重ねる唇は触れるだけなのに、甘い痺れを残していく。
低い溶け込むような声で、何かを囁かれた気がした。それすら朧気で、ふわふわとしていた。
「おやすみ」
別れの挨拶はいつもと同じで。階段を下りるその後ろ姿を見送っていた。
狭い部屋は出かける前と何も変わらず、僕は荷物を玄関へ入れ込んでから、靴を脱いでふらふらとベッドへ向かった。
固いベッドに倒れ込むと急に現実が押し寄せてくる。
どうしてハーデスのことは怖くないのだろう。他の人だと触れられると思っただけでダメなのに。
あの金糸雀色の瞳に見つめられると動けなくなる。触れた硬い指先が輪郭を確かめるように何度もなぞられ、熱を持つのがわかるのだ。
この熱が、この気持ちがなんなのか、僕は何も知らない。
冷えた部屋の温度が、体温を奪っていく。布団の上で小さく、小さく丸くなる。
手を伸ばしてもいいのかと、錯覚しかけている自分に気付いて強く肩を抱いた。
(手を伸ばす資格なんて、ない)
この体も、この心も、あの人の横にいるには不適切だ。
彼は何も知らない。汚れた僕のことをなにひとつ知らない。知られてはいけない。
(彼にはもっとふさわしい人がいる、それはきっと僕ではない)
夢のような日々だった。きっと夢だったんだ、そう思い続ける方がいい。あの優しさは、僕が受け取るものではない。
(あぁ、僕は)
ハーデス、あなたのことが好きなんだ。
だから、だからこそ、僕は。
旅の疲れか、知恵熱か。
僕はその後3日間高熱にうなされることになる。
――――――――――
2019.11.30.初出