なんだかひどく長い夢を見ているような、そんな気持ちになる。
ハーデスは何度も耳元で囁いては僕の言葉を求めて、僕が言えれば褒めるように口付けを落としてくれた。
その手が、唇が、熱くてそこから蕩けてしまいそうだ。
気持ちいいがたくさんになると、ダメなんだ。僕が僕で無くなってしまうみたいで。もっと欲しくなってしまう。求めてはいけないと知っているのに、もっとと求めてしまう。
思考がとろとろに溶けて気持ちいいしか考えられなくなってしまう。こんな淫らな僕を隠しておきたかったのに、ハーデスの手は易々と僕を暴いていく。
口付けて、囁いて、抱きしめあって、それだけを繰り返している。
「っひ、う、すき…すき…」
あぁ、ほら、もう何も考えたくない。
とろとろと腰の奥から蕩けて、全身の力が入らない。気持ちいい、気持ちいい。
「光、可愛い」
口付けの合間に何度もハーデスは僕の頬を撫でてくれる。その手が触れる場所から甘い痺れが全身に流れていく。
「っあ、んぅ、は、です、さっ、っん」
切れ切れに呼ぶ名前は届いているのだろうか。その半分以上が彼の喉の奥に吸い込まれていく。
触れてすらいないのに下肢が疼く。あやすように背中から腰を往復するその手が触れた場所から甘い疼きが生まれて集まっている。
自分の店で淫らな声をあげ続けるという背徳感が、また体を蕩かせていく。
衣服はちっとも乱れてないのに、ただ自分だけがどんどん淫らになっていく。
唇を離したハーデスが僕の頭を肩口に置いてぎゅうと抱きしめてくれる。あやすように背中をとんとんと叩かれて、それすらもびくりと反応してしまうこの体が浅ましい。
「光」
背中に降ってくる音が背筋を撫でていく。
音にならないほど小さく彼の唇が動いて、彼も僕の肩口に顔を埋めた。
まだ浅い呼吸を繰り返す僕と、静かに深い呼吸を繰り返すハーデス。そもそも彼が浅い呼吸になることなどあるのだろうか。
ある意味、酷くされているのかもしれない。痺れた脳の片隅でそんなことをぼんやり考えていた。
大きく息を吸い込んで吐き出して、乱れた呼吸を治そうと試みる。どろりとした倦怠感で体を動かすことを脳が拒否している。
「は、です、さ…おし、ごと…」
なんとか絞り出した声は掠れて、何度も口内を弄られた口の中も痺れたままうまく動かない。
「…はぁ、厭だ厭だ…思い出させないでくれ」
あやすように背を叩いていた手が、背中の真ん中をするりと撫でて、僕は思わず高い声を上げてしまう。
「今は光を離したくない」
すりすりと肩口に頬を寄せられてその仕草に胸がきゅっとする。大きな獣のようだ。
「僕、も…仕込、み、しな、いと」
今が何時かもわからぬまま口付けを交わしていたが、閉店作業しかしていない。ぼんやりとする思考がただ熱を享受してさらに脳を蕩していく。
「…今夜も、開けるのか?」
ハーデスの声が低い。
唸るような声の出し方に疑問を覚えながら、回転していない脳から直で唇が動く。
「またない、と、いけない、から」
何を喋っているのか、実はよくわからない。思考がとろりと溶けていくのを感じる。
口内の痺れがようやく収まって、それでも呼吸はまだ少し乱れている。体の倦怠感が、ゆらゆらと眠気を連れてくる。あぁ、眠りたくない。落ちる瞬間の孤独を知っているから。
「…なにを、まっているんだ?」
低くてよく通る声。好きな音。あぁ、目を開けるのも億劫になってきた。
「ハーデス…さん、まって…」
言い切ることができただろうか。わからないままずるりと眠りの淵に落ちていく。
+++
私がここにいるのに、私を待つと言ったような気がした。
続く言葉を待てども光はそのまま寝入ってしまったのか、すぅすぅと寝息が聞こえてくる。
寝やすいとは到底言えない体勢のまま眠りに落ちてしまった光の背中を、あやすように叩き続ける。
燃え上がり高くなった体温が心地良い。触れる箇所から伝わる熱が、私にも眠気を運んでくる。
乱雑に放ったままだったジャケットを光の肩にかけて、私も瞳を閉じた。
腕の中で身動ぐ感覚に意識をほんの少し浮上させる。久方ぶりに腕の中に抱いた熱を手放したくなくて、ぎゅうと抱きしめる。
「…で、す、さ…」
高すぎず低すぎない、成長期前の青年のような声。耳をくすぐるそれを知っている。
「…もう、すこし…」
ぎゅうと抱きしめると、腕の中の熱がまた動いた。もう少し寝させてくれ。久々なんだ、人の熱は。
「…めです…はです、さ…」
さっきよりはっきり聞こえる声に意識の浮上を余儀なくされる。微睡んでいたかったがそうもいかないらしい。
「はーです、さん…」
肩口に押し付けられた声を受け止めながら、ぼんやりと目を開いた。あぁ、そうだ。光の店で寝てしまったんだった。
「…おき、て、ください…」
すこし怯えるような急かす声色を聞きながら腕の力を抜く。体を起こした光が離れようとしているのを感じて反射的に力を入れ直す。
「っ、ハーデス、さん…お手洗い…いかせて…」
肩に置いた手を突っぱねながら、小さく震えて光は言う。
その姿が愛らしくて、思わず頬に手を伸ばす。
「…可愛い」
「ハーデス、さんっ…!」
「…冗談だ、行っておいで」
手を離すと、ふらふらよたよたと立ち上がった光が小走りにお手洗いに消えていく。ずいぶん顔も真っ赤だったから、ギリギリまで我慢して痺れを切らして私を起こしたと言うところだろう。
落ちたジャケットを拾い上げてポケットのスマートフォンを見る。時刻は15時。ずいぶんと眠ってしまったようだ。
届いているメッセージと着信は見なかったことにしてポケットにスマートフォンを仕舞い込むと、光がトイレから出てきてそのままカウンターへと入り込んだ。コップを回収して新しいコップを出している。
立ち上がってお手洗いへ行き用を足して出れば、麦茶を勧められる。
一気に飲んで喉が渇いていたことを思い知る。
カウンターにもたれかかったまま麦茶を飲んで息を吐いている光の頬を撫でる。
「…ハーデス、さん?」
空になったコップをカウンターに置いてから、覆い被さるように抱きしめる。
びくりと跳ねる体にお構いなしに頬を擦り寄せれば、息を吐いてされるがままになる。手を伸ばしてくることは、ない。
「離したくない」
吐息と一緒に声を落とすと、腕の中で光が身動いだ。
「…お仕事」
「思い出させないでくれ」
「携帯、鳴ってました」
ジャケットは光に掛けていた。ポケットの振動を何度も感じていたのだろう。
はぁ、とため息を落とせば腕の中の光がくすくすと笑った。少しだけ体を離せば、見上げてくる光が優しい笑顔でこちらを見ていた。
「…ハーデス、さん、子供みたい」
その頬をするすると撫でてから、口付けを落とす。触れる口付けを2度落として唇を舐めて顔を離せば、光が真っ赤な顔で見上げてくる。
「子供とこんなキス、するのか」
「っな、も…んぅ」
かぶりを振りかける顎を押さえて、口付けを落とす。否定も憤りも全部喉の奥に飲み込んでやれば、とろりと表情を歪ませる光がこちらを見ていた。
「可愛い」
「っかわいく、ないです…」
視線をそらして俯きかけるその顔を上向けて、鼻先に口付けを落とす。
「だ、め…です…」
自分の口を両手で覆ってこちらを睨む瞳が熱で潤んでる。
「私の仕事はさておき、光は休んでもいいんじゃないか?」
顔を離して頬を撫でればまだじとりとこちらを見ていた視線が彷徨った。
そう言えば、寝る前におかしなことを言っていた。
「光、誰をまってる?」
「…え?」
「またないと、と言ってたじゃないか」
首を傾げる光がきょときょとと視線を彷徨わせてから、小さくあっと声を上げた。みるみる顔が赤くなっていく。
「…光?」
「ちが、ちがうんです…」
腕の中で身動ぐから、反射的に抱き締めてしまう。
小さく震えるその耳にふっと息を吹きかける。
「ひゃんっ」
びくりと跳ねたその瞳がこちらを見て困ったように眉を曲げている。
「私を、まってた?」
「っぅ、うぅ…」
恥ずかしいと唸りながらこくこくと何度も頷くのを眺める。
「ここにいるじゃないか」
「そう…そうなんですけど…」
あまりにも震えるので、抱き締める力が強くなる。あぁ、本当に、離したくない。
「このまま連れて帰ろうか」
「ひぅっ!?」
「冗談だ」
額に唇を落とすと、困った顔のまま光がこちらを見ていた。
「それとも、冗談じゃないほうがいいか?」
両手で塞いだままの唇にその手の上から口付ける。わざとリップ音を立てればびくりと光が跳ねる。
ふるふると首を振るその瞳がこぼれ落ちそうなほど大きく見開かれている。
ふふ、と喉の奥で笑えば光はきゅっと目を閉じて小さく、ダメです、と繰り返した。
「これ以上言えば嫌われそうだな」
「…っ嫌いになんて…」
顔を上げて言いかけた言葉が途切れる。その前髪を何度も梳いてやれば、恥ずかし気に目を伏せてしまう。
「嫌いに…なれないです…」
ならない、ではなく、なれない、なところに光らしさを感じる。小さく震えるその髪を梳いてから抱きしめなおす。
「仕事終わらせたら来るから、待っててもらえるか」
「…はい」
小さく腕の中で頷くのをぎゅうと抱きしめる。
「それはそれとして、今日は休みなさい」
その頬に手をかけて上向かせ何度も額に口付ける。でも、あの、と言い続けるのを聞かないふりをして唇を落とし続ければ、根負けした光が息を吐いた。
「…わかり、ました…」
「いい子だ」
その両手指にこちらの指を絡ませて唇に唇を重ねる。
3度重ねて離してから、大袈裟に息を吐く。
「…仕方ない。仕事しに戻るか…」
絡めた指を解いてジャケットを手に取る。袖を通していると、少し待っててくださいと声がかかる。
自室に戻った光がブルーグレーのチェックのマフラーをもって戻ってくる。
「昼間でも、寒いですから」
そういえば、何も考えずジャケットだけ羽織って出てきていたのを今更思い出した。
「ありがとう」
「…いえ」
受け取って首に巻けば、ふわりと光の香りがマフラーから漂った。
「次、来るときに返す」
「はい…っ」
光の表情がぱっと明るくなった。次に来るという小さな約束だけでこんなに嬉しそうにするだなんて。
「…あぁ、そうだ」
向き直って視線を合わせる。きょとりとしたその表情を眺めて口を開く。
「寂しくなったら、いつでも連絡しなさい」
前髪を横に流してから頭を撫でれば色素の薄い瞳がじっとこちらを見る。
「…返事は?」
唇を寄せて尋ねれば、ぱちぱちと瞬きをした。
「…はい」
「よく言えました」
唇を重ねて、何度も熱を移し合ってからバーを後にした。
+++
休めと言われてすぐに休めるほど単純な体はしていなくて。
かといってバーを開けて、もしそれをハーデスが知ったら怒られる事は確実で。
仕方なしに翌日の分の仕込み作業をして自室のベッドで横になっている。眠れるとは思っていない。
ふとした瞬間にハーデスの手や、目や、声や、唇を思い出してしまいその度にもだもだとベッドの上で暴れる。小学生でもしそうにない自分の反応に30超えて何をしているのだとさらにもだもだする羽目になる。
(そういえば)
肌を重ねたあの日を思い出す。
顔から火が出るほど恥ずかしい記憶でもあるのだが、とりあえずそれは隅に追いやっておく。問題はそこではない。
僕の盛大な勘違いでなければ、ハーデスは《したい》と思っている。僕が思うよりもずっと強く。男性としては当然の要求だろうと思う…たぶん。
(そんな風に思ったこと一度も、ない)
いつだって性行為は与えられるものだった。嫌悪の対象でしかなかった。一方的に熱を押し付けられて、その中で果てろと強要されるものでしかなかった。体は無情にも反応していたが、気持ちいいと思った事はなかった。
翻ってハーデスの手を思い出す。大きなその手で優しく撫でられるだけで嬉しくて泣きそうになった。
その大きな手で包まれて射精させられたのだと思うとまたベッドの上でもだもだと暴れるしかない。
追い込まれる辛さも嫌悪感もなかった。ただ気持ちいいとその快楽に体を委ねたのは初めてだった。ハーデスの手で触られると、気持ちいいに支配されてとろとろに蕩けてしまって何も分からなくなってしまう。
だからこそ、怖い。快楽に気をやってしまったら嫌われてしまうのではないか。はしたないと嫌われてしまったらどうしよう。分からないなりにも、覚えてはいるのだ。いっそ忘れられればよかったのに。
懸念事項はそれだけではない。ハーデスの《したい》には答えたい。望んでくれるのなら答えてあげたい。問題は、たぶん彼は《僕にしたい》のだということ。流石にその経験は、ない。
(そんな気がしたから、眠れなかったし、調べてはみたけれど)
インターネットは偉大だ。ちょっと検索すればすぐに情報が出てくる。…見たくない情報まで。
事細かに書かれた前準備を見てくらくらした。慣れてしまえばきっとなんてことないのかもしれない、慣れるかどうかはわからないけれど。
男同士で、前準備まで済ませてあったら嫌われるかもしれない。そんな風にあられもなく求めようとするなんて、と嫌われるかもしれない。
それでも、汚いと言われるよりは。この体を求めてもらえるなら。
(僕にはこれしかない)
ぐずぐずに溶かされてなにもわからない状態までならないと、好きのひとつも言えない僕だけど。そんな僕を求めてくれるなら。
もぞりとベッドから起き上がる。もそもそと服を脱いでから、ユニットバスのドアを開く。ヒヤリとした空気が肌に刺さる。シャワーカーテンを浴槽の内側に入れ込んで閉め切れば薄暗い小さな浴室の完成だ。
シャワーヘッドを回して外す。外れると知ったのもインターネットの知恵だ。
蛇口を捻ってぬるま湯を出す。緩い水流で流れるそれを見て生唾をひとつ飲み込む。
(…これぐらいできないと、嫌われてしまうかもしれない)
肩と頭を壁について、自分で尻を広げる姿は滑稽すぎて見られたくはないと思った。自らの後孔にシャワーの先を押し当てて湯を注ぎ込む。少しずつ腹の奥に溜まる湯の感覚に意識がぐらぐらする。
「……っつ…ふ…」
あらかた溜まったかなと思うところでシャワーの先を離し指で押し広げれば漏れ出るように湯が流れ出す。
「…っうぁ…」
流れ出る感覚に食いしばる口の端から声が漏れる。快感とは違う感覚に膝ががくがくする。
(嫌われたくない。嫌われたくないから、ちゃんとしなきゃ)
同じ動きを3度繰り返してから、シャワーヘッドを取り付け直す。まだ腹の中に湯が残っているような気もするが、自分でそこに指を入れる勇気はまだない。浴槽に座り込んで湯を熱めにして頭からシャワーを浴びる。
(ちゃんとできたら、喜んでくれるだろうか)
脳裏に彼の低くて甘い声が響く。こんな僕でも、名前を呼んで褒めてくれるだろうか。
『光、いい子だね』
不意に耳元で囁かれた言葉を思い出してぞくりと背中に痺れが走る。
「…っうそ、だろ」
記憶を再生しただけでゆるく勃ちあがる己の性器をついまじまじと見てしまう。そっと手で触れると、手ごと握り込まれたあの感触を思い出してしまう。
「っう、ふ…」
強く握って上下に掻くたびに脳裏にハーデスの声が響く。
(だめ、止めないと、これはしてはいけないことだ)
そう思うほどに手が止められない。脳裏に響く声がもっとと囁く。甘い声で僕の手を導いていく。
「っ、う、ふ…んんっ」
扉が近くにある時と同じ感覚。ほかの何も聞こえなくなってしまうあの感覚。それでも扉のような恐怖感はない。あるのは甘い疼きを与えてくるあの声。脳を犯してくる、あの低くて甘い声。
逆らえないまま手の動きが早くなる。あぁ、だめだ。こんなことしてはいけないのに、止められなくて、声が。
『いい、ぞ…出してっ』
響いた声に導かれるように、ぐっと膨れ上がる先端からびゅくりと精が溢れ出る。
「っふ、あ、あぁ、う」
びゅくびゅくと断続的に溢れる性を、ぼんやりと眺めながら出し切るために手を動かす。
根元をきゅうと掴んだまま荒い息を吐く。吐き出した精液が排水溝へと流れていく。
(…最低だ、僕)
久々の自慰で、よりにもよってハーデスをおかずにするだなんて。人として一番してはいけない行為ではないか。嫌われたくないと思いながら、こんなことをしてしまうなんて。
ぱたりぱたり、シャワーに紛れて両の目から溢れる涙をどうすることもできずに、僕はその場に呆然と座り込んでいた。
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2019.12.11.初出