昼間の外出はあまり好まない。
それでも週に1回は買い物に出ないことには生活もなかなかままならない。全部配達で、とも考えたが職業柄季節をも感じられなくなりそうで、それは避けたかった。
ここ最近の自分の変化に戸惑いながら過ごす日々も紛らわしたくて、鞄を手に取り街へ繰り出した私は目当てのものを買い、駅近くのコーヒーショップへと足を踏み入れた。
(…相変わらず人が多い)
駅直結のコーヒーショップよりはマシだろうと選んだが、多少は混雑の緩和された感じではあるがやはり人は多い。
ブラックコーヒーの乗った小さなトレーを片手に空席を探すも、座りの良さそうなソファ席はすでに埋まっていた。
カウンターに空きを見つけそちらへ移動する。この混雑時に珍しく角席が空いている。隣に座る少し髪の長い青年は横に移動する気はないらしい。
ならばそこへ失礼するか、とトレーを置いて鞄を肩から外そうとしたところに、下から小さな声が聞こえた。
「…えっ」
聞き覚えのある声に、顔をそちらへ向ければ淡いブルーグレーのサングラスをかけた青年がこちらを見ている。長い濃紺の髪色にはあまり覚えはなかったが、そんなものより顕著に目立つ色素の薄い瞳が、驚きで丸く開かれていた。
あぁ、そんなに目を開いては零れ落ちてしまいそうだな、そんなことを片隅で考える。
「ハーデス、さん」
「…奇遇だな」
隣に座りながらそう声をかければ、ほんのりと頬を染めて下を向いてしまった。
まだ湯気を放つブラックコーヒーを一口飲んで息を吐く。店内の喧騒がなんだか遠くに感じられた。
ちらりと横目で観察すれば、恥ずかしげにこちらの様子を伺いながら、アイスのミルクティーをストローで少しずつ吸っている。黒のタートルネックにざっくりとした網目の大きめなセーターを合わせて、普段は纏めた髪を下ろしている姿は年齢よりもひどく幼く見えた。
(…なんて、彼もいい歳だろうに失礼だな)
そのコップの横に読みかけの本を見て、思わず、あ、と声が出た。
「…懐かしいな、それ」
「え、あ、あっ…」
私の目線に気づいたのか、光は私の視線から隠すようにその本を袖で覆った。大きめなセーターの端から、彼の細くて白い指が伸びている。
「あの、ご、ごめんなさい」
「ん?」
謝られた理由が見えずに首を傾げる。光はそっと両手で本を手に持つと、大事そうに膝の上に乗せた。
「…一番、好きな本なんです」
その手の端から見える本の端は、何度も読まれたからなのか随分と擦り切れていた。
彼が大事そうにその膝に抱える本は、私のデビュー作だ。
大学在学中に友人に半ば唆される形で出版社の賞に送ったら、そのままデビューとなった作品。今読めば拙い文章だなと思うものの、あの頃の情熱はその本の中で未だ息づいていて、それは少しだけ自分に誇りと自信を与えてくれるものだった。
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
私の声に驚いたように光が顔を上げた。
頬を赤く染めて瞳を少し潤ませる様は、彼が立派な成人男性だというのに可愛らしく思えるもので。ここが衆目のある場所で良かった、そこまで考えて何を考えているのだと、自分の心に叱咤する。
「あまり…本の話をするの、好きではないのかと思って」
彼の店で何度か言葉をやりとりして思ったのは、彼はあまり人慣れしていないという事実だった。今だって、自分の中で言葉を完結させたまま喋ってしまって、伝わりにくい表現になっていることに気付いていない。
「あぁ…いや、そうではないよ」
本の話を、の前に付くべき言葉は《自分の作品の》あたりであろうと推測して、言葉を続ける。
「ただ…それなりに本を出したとしても、やはり気恥ずかしくてね」
もう一口コーヒーを喉に流し込んでから、私は彼に微笑んだ。
「それでも、そこまで読み込んでくれている人はそうそういない。ありがとう」
言葉にこくりと頷くその姿は自分よりもずいぶん小さかった。
話を聞けば、彼も買い物帰りにちょっと休憩と思ってここに来たらしい。小さな声でぽそぽそと喋る様は本当に人慣れをしていなくて。時折喧騒にかき消されそうになるその声に、出来る限り耳をそばだてる。
「今日もお着物なんですね」
「あぁ…普段はこちらの方が多いんだ。打ち合わせの時とかは洋服にするんだが」
電車や車に乗って移動、となるとどうしても着物だと動きにくい時がある。そのため打ち合わせや取材の時は洋服、普段着は和服にしていた。
まぁ、あとは…この年齢になるとどうしても似合う服というのがわからなくなる。洋服は色々と選ばねばならないが、和装はその点同じようなものを着ていても咎められることはない。スーツを着るような職種なら別なのかもしれないが…作家らしさもあっていいじゃないかと、自分がおじさんになっていることは棚に上げてそう思うようにしている。
「とても、似合ってます」
はにかむように笑うのが、可愛らしかった。薄いブルーグレーのサングラスの向こうで、瞳が柔らかく弧を描く。
「光は…印象が全然違うな」
「へ、変でしょうか」
「いや、似合っている」
ぽふんと音が聞こえるほど瞬間的に真っ赤になる様が面白かった。
「…目が、悪いのか?」
店内なのに外さない様子のサングラスに、ふと気になって声をかける。問われた彼は少しだけ目を瞬かせて、そっと目を伏せた。
「あの、あまり、日光とか、ダメで」
なるほど、いわゆるアルビノ…先天性色素欠乏症に近いのかもしれない。肌が白いのもそのせいだろうか。
「眩しすぎるのか」
「は、はい…それに、ちょっと、気味の悪い色ですし」
すっかり俯いてしまったその声は、さらに小さく聞き取りづらくなっていく。
「そうだろうか」
「え…?」
言葉に顔を上げたその瞳を覗き込む。色素の薄い瞳は淡い虹彩をキラキラと輝かせている。
「私は、君の瞳の色は好きだよ」
「…っ!?」
あぁまた、零れ落ちそうなほど大きく見開いて。
自身の内の変化を甘んじて受け入れながら、私はその感覚に身を委ねる。
オーケーわかった、認めよう。私はきっと恋をしているんだ。生まれて初めての恋を。
「そ、んなこと、言われたの、初めて、です」
小さく震えながら両手でそっとサングラスを押さえる様すら、今の私には愛らしく見えた。
+++
思いがけない人に、思いがけない場所で出会って、思いがけない言葉をもらった。
頭が沸騰している。顔から湯気が出そうだ。もしかしたら出ているかもしれない。
金糸雀色の瞳が柔らかく弧を描く様を思い出して、また頬が赤くなった。
どうしてだろう、あなたのことを考えるだけで胸の奥が熱くなる。壊れてしまったんじゃないかって思うほど体も熱くなる。
「今夜は用事があって行けないので…また、明日」
昼の光の中に背筋を伸ばして消えていく着物姿の後ろ姿を見送ったのはつい先ほどで。
思わずその背中に手を伸ばしかけて、自分の細い手が視界に映って固まった。
浅ましい。
彼はただのお店のお客様だ。ほんの少し距離が近づいただけの赤の他人だ。
まして男性だ。僕からの好意など、気持ち悪いものでしかないだろう。
第一、人を愛する資格などない僕が、誰かに手を伸ばす事すらおこがましいじゃないか。
胸元をきゅっと掴んだまま、覚束ない足取りで自分の部屋まで帰ってきた。
浅ましい、浅ましい、汚らわしい。
鞄を部屋の隅へと置いて、のそのそとその横に座る。小さな部屋。ベッドと本棚しかない部屋。ここが僕の世界。
膝を抱えて小さく小さくなる。
嬉しい言葉は心を蕩して、けれど自分にそれを受け入れる資格などないとわかっているから小さくなるしかない。
僕は咎人だ。
たった一つの過ちのせいで全てを失った者だ。僕の体はとうの昔に穢れていて、その穢れを禊ぐ事すらできないのだ。
綺麗な、金糸雀色の、瞳。
あの人は綺麗だ。僕のことを気にかけてくれているようだが、僕はそんな人間じゃない。側にいる事も、本当は間違いなんだ。
とんとんとん。
部屋のドアをノックする音。出たくない。
小さく体を縮こまらせると、間を置いてもう一度ノックされる。逃げられそうにはない。
俯いていた顔を上げて、二回頬を叩く。弱い顔を見せては行けない。
体を起こしてのろのろとドアを開けば、自分よりは小さな制服姿の少女が立っていた。
「兄さん、寝てたの?」
問いかけに、苦笑だけで答える。
「今日はダメだぞ」
「それこの間も聞いた」
勝手知ったる様子で僕の横をすり抜けていく《妹》に、怒ることができない。
「また、喧嘩でもしたのか」
その後ろ姿に声をかければ、僕と同じ髪の色をした少女が少し肩を震わせた。
「だって、兄さんがいくら養子だからって、こんな仕打ちないもの…!」
ドアを閉じて鍵をかけて、簡素なキッチンに立つ。
「存外気に入ってるよ、この生活も」
電気ケトルのスイッチを入れてお湯が沸くのを待てば、少女がこちらを見ている。
「5年近く言い続けてるね」
「ずっと言ってやるわ」
「僕の気持ちは無視かい?」
マグカップにインスタントの紅茶の粉を入れる。湧いた湯をそこに入れてスプーンで混ぜてから《妹》に差し出す。
「ひかり」
名を呼ばれた少女は、静かにマグカップを受け取った。
本当の親の顔なんて知らない。今の親に引き取られた時のことも覚えていない。
哀れな、それでいてどこにでも転がっている話。僕は孤児だった。
この瞳を気味悪がって幼い頃はよくいじめられた。
引き取られてからも、俯き気味にいつもしていたことを覚えている。僕の記憶は床を見つめていた記憶の方が大半だ。
悪い方向への転機は、14歳の時。
養母に襲われた。
自分の上に跨り腰をくねらせる女の姿を心底怖いと思った。
怖くて、怖くて、その女の中に自分が埋まっていることが信じられなくて。それでも刺激だけを感じ取った若い体は心とは離反して。
その体内で果てたのだと思う。
それはひたすらに苦痛でしかなくて。そしてその責め苦はしばらく続いて。
養母が妊娠した。
襲われた日から1年後、その後も何度も襲われた後の出来事だった。
養父は何も言わなかった。気付かれてないとは思わなかった。いっそ死ぬべきか、そう思ったけど弱い僕にはそれすら選べなかった。
誰にも話せぬまま、《妹》は生まれた。何も知らない無垢な魂は、僕を兄と慕った。
耐えられなかった。何もかもが。
僕の体は見切りをつけたかのようにそこから成長することをやめた。声変わりすら、拒否した。
大学までは面倒を見てもらえたことには感謝しかない。どうやって普通の人を演じていたのかは覚えていないが。
卒業と同時にこの建屋を与えられた。手切れ金代わりだ。
これと引き換えに、僕はあの家を捨てた。
《妹》はこの現状の発端を知らない。だからこそ純粋に憤っているのだ。
「飲まないの?」
「飲む!」
ベッドに腰掛けて美味しいですと言いながら紅茶を飲むひかりに、ほんの少しだけ下を向いていた心が上向いた。
「それを飲んだら帰りなさい」
「やだ」
「ひかり」
「今日は泊まる。明後日帰るって言ってあるもん」
喧嘩をしたと言えど、両親とはそれなりに仲良くやれているようで、それだけが僕を安堵させる。君は知らなくていい。罪は全部僕が背負えばいい。
「ここに泊まると、ちゃんと言ったのかい?」
「言った」
きっぱりと言い放たれたら、それ以上つつけない。
「宿題だけはちゃんとやるように」
僕はそれだけ告げて店に繋がるドアに手をかけた。
宣言通りあの人は来なかった。当たり前だ、と呟きながら閉店作業を進める。
今日はしばらくぶりに貸し部屋の住人が飲みに来た。
フリーのジャーナリストである白髪の彼は、3杯ウィスキーを呑んで、荷物を纏めたらまた取材に出ると言っていた。
彼もグ・ラハに劣らず嵐のような人だ。
駅に近く家賃も安いここは拠点として使いやすいのだろう。半月に一度その部屋に入って換気だけする約束をして、彼は束の間部屋で休むために店を後にした。
あらかた作業を終えて自室を覗き込めば、ベッドの上でぐっすりと眠るひかりの姿があった。もう4時になろうとしている時間だ、無理もない。布団をきちんと肩までかけてあげてから、タオルケット片手に店へと戻る。
照明をうんと落として、ソファへと横になる。靴をもぞもぞと落としてタオルケットを被る。
眠りは好きではない。
不眠症ではないのだが、眠りに入る瞬間が嫌で、気絶するようにしか眠れない。夜にバーをやっている理由の半分はこの目のせい、もう半分はこの眠れないという症状のせいだ。
今日も眠れそうにはない。瞳だけ閉じて、静寂に身を委ねた。
気を失うその時を待ちわびながら。
+++
昨夜まとめた短編を駅まで取りに来た代理の編集者に託して、私は駅前を散策していた。
時間はちょうどお昼時。何処かへ入ろうにも一番混んでいる時間だ。
さっさと家まで帰ってあのバーの開店時間近くまで寝て過ごしてしまおうか、そう考えながら足を自宅方面へと進めていたら、視界の隅に見覚えのある紺碧が見えた。
昨日の今日だ、見間違えるはずがない。人混みの向こう側に光がいた。こちらは見ていないが、向かっている方向は一緒のようだった。
よくよく観察すれば、その顔が少し下方へと向けられている。表情までは見えない。
同じ方向へと歩くうちに、人混みに隙間ができる。彼の隣に並び立つ女性を見て、意味もなく足を止めた。
女性の距離は付かず離れず、他人と呼ぶには近すぎて、恋人と呼ぶには遠い。
(…なにを勝手なことを考えているんだ)
彼だって普通の男性だ。私に微笑むように誰かに微笑みかけることだってある。私の気持ちだって勝手に私が思っただけだ。光は、この気持ちを知らないのだから。
女性が私の方を指差している。私はとっさに身を隠した。
(なんで隠れた?)
自分の行動が自分で分からなくて、それでもこちらへと近づいてくる気配から身を隠したくて、看板の影に佇んだ。
「……だろ、ひかり」
「兄さん、また……」
仲良さそうに通り過ぎていくその声を耳をそばだてながら聞いてしまった。
兄さん、女性の方は確かにそう言っていた。妹さんなのだろうか。それにしてはなにか、なにかおかしな感触を感じる。
追いかけることも、立ち去ることもできなくなった私はその場で立ち尽くす。
妹さんなのか、その気持ちが心の中で安堵に変わっていくのに気づいている。勝手に期待して、失望して、また期待している。
どのくらいそこに立ち竦んでいたのか、私は彼らと十分に距離が取れたと悟ってから、背を向けて歩き出した。
開店時間より少しずらしてバーのドアを開けば、いつもと同じゆったりとした仕草で奥の席へと促された。
今日は他の客もいないらしく、私はウィスキーの水割りと乾き物を頼んで、持ってきていた本を開いた。目の前に出されたウィスキーの水割りとジャーキーの盛り合わせを交互にゆっくり喉奥に落とし込みながら、本を読み進める。
読み進めてはいる。実際読んではいる。だが私の目は本の表面の文字を滑るだけで、それを意味として脳に届けない。
本の虫であると自負する私がこうなってしまうとは、これはもう重症ではないか、と心の中で笑うしかない。
彼は時折時計を気にしている。
「すみません、一瞬だけ」
断りを入れた彼がカウンターの奥、暖簾の向こうのおそらく彼の自室に繋がるドアを軽く開いて中を確認している。すぐに戻ってきた彼は、訝しげに見つめる私に苦笑まじりに告げる。
「妹が、きてまして」
やはり昼間の女性は妹さんで間違いなかったのか。彼の口から告げられた言葉に安堵する。
「妹さん…か、この時間だともう寝ているのでは?」
「こちらに顔を出そうとたまに起きているので…」
いたずら好きなんです、そう言って困ったように笑う姿が愛らしかった。
「仲がいいんだな」
「そう、でしょうか」
伏せたその顔は、どこか焦燥しているようにも見えた。
「仲が良くなければ、泊まりになど」
「そう…ですか、そうですね」
手元を見るように伏せられた顔は、徐々に上向いていく。
「ハーデス、さんは、ご家族は…?」
問われた言葉にぴくりと反応しかける。
「家族…は、いない。ずいぶん前に両親も亡くなってね」
「あ、す、すみません」
頭を下げる彼に、答えたのは私だからと手を振る。からりとグラスの中の氷が音を立てて溶けていく。
「出会いもなく出不精も相まって、この歳まで独り身だよ」
作家なんてしてるとどうしてもね、と肩を竦めて見せれば光はふわりと笑った。ようやく、笑った。
「それは、僕も、似たようなものです」
お恥ずかしい、と目を伏せる彼はやはりどこか昨日と様子が違うように見えた。バーのマスターと客というこの場の配役のせいなのか、それとも。
チェイサーが置かれる。喋りながら呑んでいたが、水割りは残り3口程度だった。
会話が途切れる。不自然にならないように本へと視線を戻しながら、ちらりと腕時計を見る。時刻は深夜0時前、もう一杯は飲める時間だ。
どうしようか、なにを飲もうか。酒瓶の載った棚を見上げようと顔を上げたら、こちらを見ていた光と目があった。恥ずかしげに視線を伏せてしまうのはいつも通りだった。
その横の酒瓶に目を滑らす。どうしようか、今日は2杯目も同じものにしてしまおうか。
そんなことを考えながら口を開きかけた時、とんとんとんとドアをノックするような音がした。光がはっと顔を上げる。
「す、すみません、少しだけ」
暖簾の向こうのドアへと足早に近づいて細くドアを開く。いけないとわかってるのに、耳をそばだててしまう。
「…どうしたの?」
「飲み物…」
「あぁ、なにもなかったか…ちょっとまって」
ドアを開いたまま暖簾を押しのけて光がカウンター下の冷蔵庫へ向かう。
その暖簾がふわりと揺らめく隙間に、妹と呼ばれた女性の姿を見た。
ずいぶんと、幼い、光によく似た面影の、妹。
冷蔵庫からペットボトルを2本手に取って光はドアへと戻る。
「はい、甘い方は飲み過ぎちゃダメだよ」
「うん」
「ほら、ベッドへ戻りなさい…おやすみ」
「おやすみなさい」
パタリとドアが閉じられ、光がこちらを振り返った。
「すみませんでした…」
「いや、気にしないでくれ」
ウィスキーの水割りをもう一杯頼むと、かしこまりましたと声が返ってくる。
本へと視線を戻しながら、結局文字だけを目で滑らせながらもう少し会話がしたくて口を開く。
「…妹さん」
「っは、はい」
「いくつ離れ…て…?」
視界の端に置かれたおかわりを目で追って、ぎょっとする。その手が、震えている。
「…光?」
「…っす、みません」
伏せた瞳は表情を読み取れない。とっさにその手を取ってしまった。彼の冷たい皮膚が、私の熱を奪っていく。
細い腕だ。男性らしい筋肉は付いているが、それにしても細い。
光は驚いた顔のままこちらを見た。色素の薄い瞳が、涙を溜めて潤んでいる。
昨日恋を自覚した私に、これは、拷問に近い。
「あ、あの…」
薄い唇が言葉を迷って、それを見てようやく私は手を離した。恐る恐る彼の手がその胸元できゅっと握られる。
「すまない…大丈夫か?」
「いえ、あの…大丈夫、です」
手首の私が掴んだあたりをそっと撫でている。強く握りすぎてしまっただろうか。
視線を合わせないまま互いの顔を見て、無言の時が流れる。
顔を逸らしたのは彼だった。頬を染めた彼はいつものように視線を下へ下げる。
「妹…とは、15ほど、離れています」
15。歳の離れた兄弟などよくいる話だ。
だが、それにしてはなにか、なにかが。
「まだまだ、手のかかる妹です」
困ったように笑いながら顔を上げた光は、やはりどこか泣きそうだった。
三杯目にも同じものを頼んで、それも半分ほど飲んだところで時刻は2時を過ぎていた。チェイサーも入れながらゆっくりと飲んだので、思っていたよりも酔いは回っていない。元々酒には強い方なのだ。
あれから会話らしい会話もできず、ただ本に目を滑らせていた。
光も客が私1人ですることがないのだろう。ぼんやりとそこに佇んでいる。座れば、と何度か呼びかけたが首を縦に振らなかった。彼なりの矜持なのだろう。それは尊重せねばならないものだ。
バーに横たわる沈黙にジャズのメロディが沿うように寝転ぶ。落とした照明が眠りを誘う。
かたり、カウンターの向こうの光が動いた。店のドアへ向かい、薄くドアを開いてかたりと音をさせてドアを閉じ、舷窓のカーテンを閉めた。店仕舞いの合図だ。
「すまない、もうそんな時間か」
水割りを飲み干そうとグラスへ手を伸ばせば、彼の声がそれを遮る。
「いえ、今日はもう、誰も来ないと思うので…」
どうぞ、ゆっくりと飲んでください。そこまでは言い切らない彼に肩を竦める。ほらまた、言葉が足りない。
「ソファに移ったほうがいいかな?」
私の問いかけに少し迷った彼はお好きな方で、と告げた。カウンター側を開けたほうが、彼も何かと作業しやすいだろうと考えて席を移動する。
うっかりこの店で朝を迎えたあの日から、何度かこのソファで本を読んだまま明け方を迎えた。
彼も私も、互いが思っていた以上に本の虫だった。互いに読み始めると、無言のままぴくりとも動かずひたすらに本を読み続けてしまうのだ。家の布団の上で読むのとは違う、心地良い時間だった。
本と鞄をソファへ置いてから、水割りとチェイサーを側の机へ。彼が新しいおしぼりを渡してくれた。温かい。
ソファに深く腰掛ける。程よい硬さのソファがぎしりと音を立てて沈み込む私を支えた。こちらのソファに座って飲食する客を見たことがない。そのくせ、このソファはここにあるのが当然であるかのように置かれている。
かたりかたりと彼が閉店作業を開始している。膝の上に本を開いて、文字は追わずにぼんやりとその姿を目で追った。
小さい店ではあるが細々とした雑事はいくらでもあるのだろう。それらを手際良く済ませていく姿を眺めている。
時折私の視線が気になるのか、こちらを見ては頬を染めて視線を外すのを微笑みながら見つめる。水割りはできる限りゆっくり飲んでいる自覚がある。
「先に会計をしてしまおうか」
レジを閉められないだろうと思いそう声をかけると、トレーと伏せた伝票を持って彼がこちらへくる。机の上に置かれたそれをちらりとめくってから、釣りのないようにトレーに乗せれば小さな声で「ありがとうございます」と礼が漏れ彼は下がっていった。
その姿を目で追う。本は閉じた。
書きつけしながらレジ替わりの金庫を開いている。流石にその手元はカウンターの向こうで見えない。そこまで見てしまうのもルール違反だろう。
ぱたりと金庫の閉じる音がする。それを隣室のドアを開けてそこに置いて、彼がこちらを振り返る。
「あ、あの…」
俯いた頬が紅潮している。
「み、見てても、面白くないですよ…」
尻すぼみに小さくなっていく声に、存外楽しいものだと声をかければ、小さく肩を縮こまらせた。
水割りの最後の一口は飲まないまま机に置いておく。チェイサーを飲み切れば、彼から麦茶の入ったグラスを差し出された。空になったグラスと交換で受け取る。ほんの少しだけ指先が触れ合った。
カウンターの向こうへそれを置いてから、彼も自分のグラスに注いであった麦茶を飲んでいる。白い喉が嚥下するたびに上下して、そっと視線を外した。
そのままバースツールへ座ろうとするのを、トントンと隣を叩いて制する。びくりとその体が震える。
何度か本を読みながら夜を明かした時にソファに隣り合わせで座っていたこともあるのに、彼は誘う度にびくりと震える。その様すら可愛いと思うのだから重症だ。酔ってないと思ったが酔っているのかもしれない。
2人分の幅をあけて座るのもいつも通りだった。
疑問が確信に変わり自覚してから、彼のことが普段よりも愛らしく見える、気がする。こんなおじさんに好かれても迷惑かもしれないが…。
ピタリと足を閉じて座るのも、本棚をそわそわと見るのも、いつも通り。
小さく息を吐いて読む本を決めたのか、その手が本棚へ伸びる。その手に取ったのは料理のエッセイ本だった。
満足そうな表情でソファに座りなおした光がそっと包み込むように本を開いていく。何度も読んだであろう本でも大切に開くその様に心が柔らかくなる。
読み進めるそのきらきらとした表情を眺めながら、麦茶を一口飲んだ。
「兄さ……」
隣室へ続くドアの向こうから姿を現した少女が、こちらを見て固まった。無理もない。
私はそっと人差し指を立てて自分の口に押し当てた。少女が察したように自分の手で口元を抑えている。
光は、私に凭れ掛かり眠っている。そのまま寝かせるのも忍びなく、私の羽織をその体に掛けてやっている。
「…眠っているのでね」
小さく呟けば少女はそっとこちらへ近づいてきた。
「寝てる…んですか?」
「あぁ」
光の目の前まで来た少女はそっとその顔を覗き込んで小さく息を吐いた。
「よかった」
呟いた言葉の方向に首を捻る。私の疑問を感じ取ったのか、少女が光を見つめたまま小さく呟いた。
「兄は…眠ることが得意ではないんです」
しゃがみこんでその顔を覗き込んだ少女はふんわりと微笑んだ。光と同じ、優しい微笑みだった。
「私でも、触れると怖がるんです。だから、よかった」
それは、初耳だった。確かに触れるたびに震えてはいたが、まさかそれが血縁である妹であってもだとは思わなかった。
伏せた瞳はまだ眠りの向こうにいる。ゆらゆらと揺れるようなか細い息が彼の胸を小さく上下させて、その様がまだ彼がこちらにいることを物語る。
「…あなたは、兄の味方ですか」
問いかける言葉の真意は見えない。少女は何かを知っている。光の隠す何かを。
「そうありたいと、思っている」
味方であると言い放つことはできる。でもそれを彼が望むのかはわからない。だから、そうありたいと。
「…そうですか」
立ち上がった少女は光と同じ笑顔で微笑んだ。
「…名乗るべきかな?」
「それは…兄が起きてから、兄に紹介してもらいます」
凭れ掛かったまま眠る光を共に見る。
その瞳が開かれるまでは、まだもう少しかかりそうだった。
――――――――――
2019.11.26.初出