やっぱりここでもか、私は息を吐きだしてその集落に背を向けた。
歩いてきた足跡がどこまでも追いかけてきて厭になる。ぎゅっと胸を締め付ける様に掴んで足早に歩を進めた。
知らない、何も知らないんだ。
++
「…英雄殿が、いなくなった?」
星見の間で衛兵から報告を受けた水晶公は首をひねった。
昨日までは普通に過ごしていたはず。しばらく原初世界側に戻るとも聞いていない。
ふむ、と考え込んでいるとバタバタと足音が鳴り響いて、報告を終えた衛兵と入れ替わりに些か強引に扉が開かれた。
「ねぇ、あの人こっちにきてない!?」
飛び込んできたアリゼーはこちらに掴みかかる勢いで尋ねてくる。
「嫌な予感はしてたのよね…そろそろかしらとは思っていたんだけれど」
後ろからコツコツと苛立ちを含んだ足音を響かせてヤ・シュトラとアルフィノがやってくる。
「こっちには来てない…が、嫌な予感とは?」
水晶公の疑問に、あぁとひとつ呟いてアルフィノが補足してくれる。
「あの人は何か大きいことが終わると…その…緊張の糸が切れてしまうらしくてね」
そうなると、急にいなくなったりするのだと付け加えてくれる。
「英雄殿にも休息は必要だろうし、それは構わないのでは…」
「ちっがうのよ!!」
アリゼーが捲し立てるように水晶公に掴みかかるのをアルフィノが慌てて宥める。
「最初はただの休養だと思ってたのよ。でもね…」
ヤ・シュトラはミコッテ特有の耳をピンと張りつめたまま次の言葉を紡ぐ。
「あの人、そのたびに記憶を失うのよ」
ぴくり、水晶公の耳も跳ねる。
「記憶を失うというとちょっと語弊があるかもしれない。なんといえばいいか…もう一人の別人になってしまうのだよ」
「そろそろその周期が来るんじゃないか、って話をちょうどしてたところだったのよ…特に今回は、あの人が背負わされたものが大きすぎる」
アリゼーが俯いたまま強くその手を握りしめている。
「原初世界ならまだ探しようがあるけど、こちらだとそれも少し難しいわ」
「わかった、こちらでも情報を集めよう」
水晶公は3人に頷く。
「見つかったら報告より前に捕まえといて。じゃないとまたいなくなっちゃうから」
アリゼーが念を押すように告げて扉へ向かって踵を返す。
「私たちももう少し探してみるとします。水晶公、申し訳ないが…」
「あぁ、頼まれた。そちらも無理はしないように」
水晶公の言葉を受けながら3人が足早に星見の間を去っていく。
閉じた扉を目視で確認しながら水晶公は大きな水晶の魔器に向き直る。ぐっと杖を握って彼の人のエーテルを辿る。例え人格が入れ替わっていようとも纏うエーテルは間違えようがない。鏡のようにつるりとした魔器に少女の姿が映し出されてほっと息をつく。
「……まだ、レイクランドにいるようだな」
少女の居場所を確認してから魔器との接続を切り、水晶公も足早に星見の間を後にした。
++
石壁の後ろからひょこりと中を覗き込んだ私はそこに魔物の気配しかないことを確認してからするりと潜り込んだ。
何も知らないはずなのに、この体は闘う術を知っている。そういう意味では逃げ場所を探しやすくて助かっていた。体は戦い方を知っていても心は知らないので出来うる限りの戦闘を避け大きな城の奥深くに潜り込んでいく。
今まさに朽ち果てようとしているその場所は、酷く白く滲んで見えた。
ようやく魔物のいない一角を見つけ出して腰を下ろす。白い石畳はすっかり朽ちてしまっていたがその凸凹とした段差は腰かけるのにちょうどよかった。小さく膝を抱えて安堵の息を漏らす。その耳にがさがさとわざとらしい音が響いて私は立ち上がり武器に手をかけた。
「ま、まってくれ! 人だ!」
建物の陰から、黒いローブを着た男性が姿を見せる。ローブの下の表情は窺うことができなかったが少なくとも魔物が化けたという類ではないようだと武器から手を離す。その様子にほっとしたのか男性はゆったりとした足取りで近づいてきた。
「この城のことを調べてる時に…奥まで入り込みすぎてしまってね。すまないが、少しの間休憩させてもらってもかまわないだろうか?」
魔法職なのだろうか杖は持っているようだが、距離を詰めてくる魔物相手には詠唱職には辛かっただろう。私は了承の意を伝えると今一度段差に腰かけた。ほっとした様子でその男性も私の正面に腰かけた。
「すまないね、ありがとう」
彼はせめてものお詫びにと道中で拾ってきたのかいくつかの焚き木になりそうな枝を使って石畳の上で火を起こした。陽が落ちかけ冷たい風が吹き始めていたこの場所に暖かな灯りが灯る。
「簡単なもので申し訳ないが…」
包みを手渡されて困惑する。
「…これ、あなたのご飯じゃ?」
「少し多めに持ってきてあったので、貰ってくれると助かるよ」
渋々受け取って開くとサンドイッチが出てきた。確かに日持ちするようなものではない。あまり空腹感は感じなかったが好意を無碍にするのもと思い受け取っておく。
ぱきりと薪が炎に押されて爆ぜる。その火を使って暖かいスープ作りそれもこちらに手渡される。
顔色を窺おうにも闇色のローブの下の顔は見えない。どうぞと促されてゆっくりとそれを口に運ぶしかなかった。
++
思った通りの場所にいてくれて助かったと思う反面、本当にこちらの事を知らない態度をとられて少し寂しくなる。
水晶公はもさりもさりと食事を口に運ぶ少女の姿を横目で見てほっと息を吐く。好意を無碍にする人ではないのはわかっていたが、食事すら断られたらどうしようかと内心ではひやひやしていたのだ。自分の分のサンドイッチを口に運びながら、さてこれからどうしたものかと考える。陽は落ちかけ少女が取り戻した夜が訪れようとしている。ここから動くのは得策ではないが、この場所に居続けるのも良しとは言い難い。だが、この状態の少女を連れてクリスタリウムに戻るという選択肢を取れそうにないのも事実だった。
幸いなことに、レイクランドもラクサン城も水晶公たちクリスタリウムの管轄内であった。塔から離れすぎていないためまだ多少の無茶も効く。ライナ達にはあとでしこたま怒られるかもしれないが…その程度で済むならマシとも言えよう。
少女がゆっくりとスープを飲みほしたのを見てそのカップを受け取る。軽く紙で拭ってしまい込んでから驚かせないようにゆっくりと話しかける。
「…だいぶ日も落ちてしまったが…あなたはこれから?」
問いかけに、少女は少し考えてから
「…日が昇るまでは、ここにいようかと」
「…それは、あまり良くない」
キョトンとした表情で首を傾げる少女の様子に水晶公はどきりとする。こんな風に少女が見つめてきたことなど今まで一度もない。
「夜はまた別種の魔物も出るから…あなたさえ嫌でなければ、城内へ移動したほうがいい」
「…ここ、入れるんですか?」
問いかけを了承の意と捉えて、水晶公は手早く薪から火を消す。
「この城のことなら、そこそこ知っているのでね…さぁ、こっちだ」
嘘も本当のことも言っていない。少女の顔は見ずに城の裏口の鉄扉を少し強引に押し開く。ぎしりと錆びた鉄の音を立てて人が通れる隙間を作って入り込んだ水晶公に続いて、少女も城内に足を踏み入れる。手にしたカンテラに明かりを灯して足元を照らしながら歩く。
「何度か、来てるんですか?」
「…しばらくぶりではあるけれど、そうだね」
おそるおそるといった感じで後ろをついてくる少女の気配を背中に感じる。こんなに小さく怯えながら誰かの背を追いかけて歩くことが今まであっただろうか。
ひとつの部屋の前で足を止め、ゆっくりと木の扉を開く。大きく扉を開いてやれば少女がその扉の影から中を覗き見る。元は客間だったのだろうそこには、大きなベッドとソファそれに文机と椅子、少し色褪せてしまった風景画が飾られている。
ざらりと毛羽立ってしまったカーペットを足の裏に感じながら部屋の中へ入り込む。ベッドとソファに埃避けにかけられていた大きな布を取り外して隅へ避ける。色褪せてはいたが家具としての機能はまだ有しているのを見てほっとする。
遅れて部屋に足を踏み入れた少女が物珍しそうにきょろきょろとあたりを見渡している。その眼差しに普段の覇気は見えない。少女にソファに座るように促して水晶公は椅子を引っ張ってきてソファの正面に腰かけた。カンテラの緩い明かりがぼんやりと2人の影を浮かび上がらせる。
ちょこんと座る、という形容詞が正しいと言い切れるほど小さく少女はソファに腰かけた。とりあえず休める場所は確保したが、さてどうしようかと考える水晶公に少女はおずおずと口を開いた。
「あの…ありがとうございます」
「私も一晩過ごす場所を探していたところだったんだ、気にしないでくれ」
優しく微笑みかければ幾分か緊張もほぐれたのか少女の唇にも薄く笑みが浮かんだ。
「あなたは…見たところ旅人のようだけれど、どこから?」
問いかけに少女の肩がぴくりと動く。答えられないはずの問いかけをしているのは意地が悪いとは思うが、少女の現状をできる限り把握しておきたい。
「……私、は…」
それだけ呟いて瞳を伏せられてしまう。
「すまない、言いたくないなら無理には」
「いえ、あの、私…」
水晶公の言葉を遮るように少女は慌てて口を開く。
「私、なにも、わからなくて」
行儀よく膝の上に置かれた両の手がきゅっと強く握りしめられる。伏せた視線はうろうろと彷徨っている。
とつとつと話す少女の話は本当に細切れで少女自身も必死なのだということだけが切々と伝わってきた。
目覚めれば知らない場所、今までも幾度かそういうことがあったが全く見知らぬ場所というのは初めてだったらしい。混乱のまま部屋を飛び出せばあちこちから自分を知っているであろう人々に声をかけられる。混乱に拍車がかかり街を飛び出して他の集落へ。そこでもやはり同じように声を掛けられ…を繰り返してこの場所にたどり着いたらしい。
「ここがどこかも、わからなくて…」
小さくなってしまう少女を今すぐに抱きしめて大丈夫とあやしてあげたい。そんな衝動が水晶公を襲う。それをぐっとこらえて、水晶公も声を漏らす。
「それは…怖かっただろうね」
素直な感想だった。記憶を失ってない状態だったとはいえ自分も世界の壁を乗り越えてこの場所に来た時は同じように混乱をしたものだ。
怖かったという単語に反応してか弾かれたように少女の顔が上がった。今にも泣きそうな瞳は潤んでこちらを見つめている。押し殺すように頭を振って少女はため息をついた。
「ごめんなさい、会ったばかりの人にこんな話」
ちくりと胸が痛んだがそれを奥底にしまっておくことにする。
「話すことでまぎれることもあるだろう、気にしないでおくれ」
普段自身のことを極力語らない少女の口から、記憶がない状態であるとはいえ語られる言葉は、不謹慎だなと思いながらも心躍るものがあった。
「…ごめんなさい…え、っと」
おずおずと、そういえばお名前はと尋ねられて水晶公は言葉に詰まる。ほんの一瞬だけ考えて口を開く。
「…ラハ、だ」
フルネームで告げないのは少女の記憶を呼び起こさないためと自分に言い聞かせる。
「…ラハ、さん」
呼ばれて胸がぐっと詰まる。何も知らない少女を利用しているようで心苦しくもあるのだが致し方ないと自分を納得させる。
「あなたの名前は……っとすまない」
自然な流れで聞き返そうとしてはっと口をつぐむ。少女も口をつぐんだ水晶公に気付いたのか、あっと声を上げる。
「…あの…名前、あります。大丈夫です」
この体の名前とは違うかもしれないけれど自分でつけました、と寂しそうに呟くのが印象的だった。
「あの、私は、ノワールって言います」
それは、原初世界の言葉で闇を表す言葉の一つ。あちらで光の戦士と呼ばれた少女が自身でつけた名前が闇を表しているというのは何という皮肉か。
「……そうか。では、ノワール、改めてよろしく」
差し出した水晶公の手をノワールはおずおずと握り返した。
++
彼の話はとても面白かった。
記憶のない私を慮って、出来る限り簡単な言葉を用いて喋ってくれているのはわかった。その厚意に感謝をしながら私は彼の言葉からたくさんのことを知ることができた。
今いる場所がレイクランドという地域だということ、このお城の名前はラクサン城という名前で元はエルフが支配していたということ。大きな厄災が起こってエルフがいなくなった城は荒れ果てたということ。
地名にも、エルフという単語にもピンとくるものがなかった。いよいよ自分がどこにいるのかがわからない。
「なにか…ノワールの手掛かりになればいいのだが」
心配そうなその口調に、私は首を横に振ってありがとうと答える。この体の持ち主はどれだけの旅を重ねて来て、そしてこれからも重ねていくのだろうか。それを考えるだけでめまいがしてくる。
私は泡のような存在にすぎないのを理解している。ほんの一時表に現れてゆらゆらと漂って消えていくだけの存在。だから本当はこんな風に知識をため込む必要もない。
目の前の優しい隣人は、きっと私のことを知っている。知っていて知らないふりをしてくれている。体の主に、あなたを思ってくれる人はこんなにいるんだよと伝えてあげられないのがもどかしい。
だから…ついうっかりなのだ。この人なら気を許しても大丈夫なんじゃないかと思ってしまったのだ。
「この体の持ち主は幸せだね」
ふいに出てしまった言葉にラハが固まる。しまったと思っても出てしまった言葉は取り消せない。思わず口を覆ってしまい態度に拍車をかけてしまう。
「…気づい、て」
がたりと彼が椅子から立ち上がったのがわかった。私は反射的に体を小さく縮める。怒られると、なぜだかそう思ってしまったから。
上から響くかと思った怒声も拳も下ろされることはなく、そっと握りしめていた両の手をふわりと掴まれおそるおそる目を開く。私の目の前に跪いたラハはそっと被っていたフードを下ろした。真紅の双眸がこちらを見ている。怒られるのではという恐怖が頭を支配している状態ではその瞳から感情の機微を読み取ることはできない。
「ごめ、ごめんなさ」
「あぁ、違うんだ、ごめん、泣かないで」
ぽろぽろと流れ落ちる涙を止めることができない。どうしてラハが謝るのかわからなかった。流れる涙を彼の両手が拭っていく。水晶の腕がひんやりと、泣いて熱を持った肌に心地よかった。
「泣かないで」
隣に腰かけたラハが私の体を抱きしめたのが分かった。柔らかなローブの感触とどこか懐かしいラハの香りが優しく私を抱きしめてくれている。その胸に顔を埋めて、私は少しの間泣き続けた。
++
不意に告げられた言葉に驚いて泣かせてしまったのは完全に自分の落ち度だった。気づかないふりのまま流してあげられればよかったのだけれど、一度少女に剥がされた仮面をもう一度貼り付けるのは無理だった。
涙があふれて止まらないノワールを抱きしめてやることしかできない。思っていたよりも小さいその体に驚く。この小さな体で世界を脅威から守り続けてきたという事実に思わず眉をしかめる。声を殺して涙を流し続けるノワールを抱きしめることしかできない自分が歯痒い。
どのくらいの時間が流れたのか、水晶公が存分に自戒をし尽くしたころその腕の中でノワールは身じろいだ。抱きしめていた腕の力を解いてあげれば、まだ潤んだ瞳を腫らしてノワールがゆっくりと動いた。俯いたままの背中を優しく撫でればまたその瞳からぽろぽろと涙がこぼれる。
「す、すまない」
必死にかぶりを振るノワールの瞳からは涙があふれ続けている。なにか言葉を紡ごうとしている気配だけは感じるのでそれ以上何も言わずに言葉を待った。
何度か深呼吸して呼吸を整えたノワールは自分の胸を抑えながらぽつぽつと言葉を発し始めた。
「びっくり、して…ごめんなさい…」
どうしてノワールが謝るのかわからなかった。
「…謝らないで。こちらこそ黙っていてすまなかった」
ノワールがふるふると首を振る。
「…わたしを、知っているんですね」
押さえた腕をそのままに、小さく手を握りしめている。その手がカタカタと震えているのがわかる。
「…すまない」
黙っていたという事実に正直に謝罪を言葉を述べる。
「…いいんです。私は、有名すぎるらしいので」
沈む声のトーンに掛ける言葉を失う。そう導いてしまった一端が自分にあることを知っているため掛ける言葉を見つけられない。
「…すまない」
「…どうして、ラハさんが謝るんですか」
声の固さにこちらの体も強張る。真っ赤に腫らした、どこか冷めた瞳が水晶公をじっと見つめていた。
「ラハさんは、何も悪くないです…私を傷つけまいとそう振舞っていてくれたんですよね?」
それぐらいはわかります、ノワールは水晶公から視線を外して呟いた。
「それでも、黙っていたことは事実だ」
「いいんです…ちゃんと、お話しできてよかった」
立ち上がろうとするノワールの腕をあわてて掴む。
「どこ、へ」
ひどく喉が渇く。嫌な予感で冷や汗が止まらない。
「…どこか、へ」
端的に告げられた言葉に、つい掴む手に力がこもる。ノワールがだだを捏ねるように体をねじる。
「離し」
「離さない」
自分でもびっくりするほど低い声が唸るようにそう告げる。水晶公の赤い瞳がその二つ名の通りノワールを射貫かんばかりに見つめている。
「絶対に、離さない」
少女の我を優先させたいという普段の心がけはもうすっかりどこかへ消えていた。離したくない、その思いだけが心を支配している。
半ば強引にノワールを自身の胸に抱きしめ直す。腕の中からもがいて逃げ出そうとするノワールに覆いかぶさるように強く抱きしめる。
「大丈夫です、少ししたらほんとの私が、帰ってくるから」
「それでキミはどこに行くんだい」
ノワールが身じろいで水晶公の顔を見上げてくる。腕に抱きとめる力は抜かないままその頭をそっと撫でた。その表情には困惑が浮かんでいた。
「…私は、帰ってきますから」
その言葉にかぶりを振るのは水晶公の番だった。
「違う」
呟いた言葉の強さにノワールがびくりと震える。
「…ノワール、キミはどこにいくんだい」
「私は」
「ノワール」
出来る限り優しく声をかける。また驚かせないように。
「キミの心は、どこにいくんだい」
頭を撫でていた手でそっと頬に触れる。泣いて泣いて体温の上がったノワールの頬の熱がじんわりと指先に染み込む。
「…私…?」
英雄としてのキミが強さの証なのだとしたら、ノワールとしてのキミは弱さの証なのだろう。それはきっと表裏一体だ。どちらが欠けても正しくはない。
「私、は…泡です。一時現れて弾けて消える、それだけです」
悲しいことを言うな、掠れてしまう声で告げながら強く抱きしめる。ただの泡だというのならどうしてそんなに悲しそうに泣くというのか。少女の小さな体を魂ごと包み込めればと強く水晶公は強く抱きしめた。
「…ラハ、さん」
苦し気なノワールの声色にほんの少しだけ手の力を緩める。
「…私のことを、覚えないで」
「ノワール」
名前を呼べばぴくりと肩が跳ねる。その声が、体が震えている。こちらを見ないまま、ノワールは言葉を続けていく。
「居なくなる泡を覚えないで」
「私は今、キミと」
「おねがい、ラハさん」
震える手が今一度水晶公の体を突っぱねようとする。英雄である少女の体を使えば水晶公などすぐに振りほどけるだろうに、その腕の動きはどこまでも緩慢で優しさに満ちている。
「思い出を、作らせないで」
俯いたまま吐き出された本音をひとつ拾い上げる。
「どうせ消えてしまうから……思い出を作りたくないから、ずっと、逃げていたの?」
水晶公の問いかけに少女は小さく頷く。英雄という重圧から、記憶から、思い出から、逃げたいと創り上げられたのがノワールという存在なのだとしたら。
「そんなこと、できるもんか…!」
そのどちらも本質的には変わりはないではないか。
探して、探して、やっと見つけて、守るために文字通り命懸けでがむしゃらに進んで、その果てでキミが逃げ出したくなったとしても。
「オレが…オレがいる…! あんたを守るって、決めたんだ…だから…!」
「それは、私じゃ、ない」
「あんただ! 間違えない! 絶対に、間違えない! …消えてしまう? 消えてなんかいない! 英雄のあんたも、ノワールのあんたも、全部…!!」
心に溜まっていた澱を吐き出すように水晶公は少女の肩を掴んで告げる。
「全部、離したくないんだ…!!」
なんて強欲になったんだろう。本来だったら紡げない思い出を紡いでいるのは私の方なんだ。水晶公は声にならない声をため息に乗せて吐き出す。
「だから…居なくならないでくれ…」
キミの居ない未来でキミを探して、キミの居る今でキミを見つけたんだ。
少女の突っぱねていた手から力が抜けていくのがわかった。とさりと落とされた手の音に顔を上げれば困った顔をしたノワールが静かに水晶公を見つめていた。
「……どうし、て」
その瞳に涙が浮かんでいる。歪む視界の向こうでくしゃりと少女が泣いている。
「…どうして、ラハさんが、泣くの…?」
問われてはじめて自分が泣いていることに気がついた。キミだって、そう言いながら頬を伝う涙を拭い上げれば、あれ…と声を上げて少女も自身の状態に気づく。
「もう、失いたくないんだ…」
「それ、は、私じゃ」
「キミだよ」
そっと、胸の中に小さな体を手繰り寄せる。
「私は、泡で」
「うん」
「じきに、消えてしまうから」
「うん」
その頭をそっと撫でる。肩口に顔を埋めるようにノワールは小さく身じろいだ。
「……消えるまでは、居てもいいの?」
消え入りそうなほど小さな声を、水晶公の耳は聞き漏らさなかった。ふたつめの本音を拾い上げて抱きとめる腕に熱がこもる。
「ここに、いて」
2人の涙の音が静かな部屋にこだましていく。
++
どのくらい時間が流れたのだろうか。
泣き腫らした目を開けるのが億劫になる頃、私たちはようやく腕を解いた。お互いにひどい顔だ。ラハは私の頬に指を添えるとそっと涙の跡を指で拭った。
「ひどい、かお」
嗚咽を漏らし続けた喉は酷く乾いているのに、どこか満たされるものを感じていた。
「ノワール」
呼ばれてその真紅の双眸に向き直る。優しい眼差しに酷く安心する自分がいた。
「ここにいて」
頬に添えられた手が熱い。自分だって泣き続けて熱く体が火照っているはずなのに、ラハの熱はそれを上回っているように思えた。
「消えて、しまうよ」
嘘はつけない。私は消える。この体は私のものではなく、この心しか私にはない。…心でさえ、束の間なのだ。
「消えないさ」
ふ、と笑う顔は少年のそれだった。
「いなく、なるよ」
表現を変えただけだ。本質は変わらない。わかっていて私は尋ねる。
「いいさ」
事もなげにそう言い切れる彼の強さはなんなのだろう。
私はゆっくり目を閉じる。消えても、いなくなっても、それでもここに居ていいと…そう言ってくれるのなら。頑なだった心が少しだけラハの熱で柔らかくなったのを感じる。こんな風に熱量を持って私を見てくれる人はいなかったから…。
「消えるまで、そばにいて……くれますか」
はじめてのお願いを、あなたにしてみたくなった。
ずっとずっと逃げていた。泡が起こるように目覚めて、恐怖で逃げて、逃げて、逃げて、泡が弾けるように消えていく。何度もこの体でそれを繰り返した。
「あぁ……あぁ、もちろん」
ラハの耳が嬉しそうにピンと立つ。その瞳が優しく弧を描く。嬉しそうに笑うその顔に、その水晶の青にそっと手を伸ばす。ひんやりと指の熱を奪うその場所をそっと撫でると、くすぐったそうにまたラハが笑った。
逃げる意思がなくなったのを分かってもらえたのか、ラハの腕が私から離れていく。カンテラの明かりが不安げに揺れる。
「おっと…」
ラハは周囲を見渡すと部屋に備え付けの燭台へ歩み寄りそこへ火をつけた。カンテラの明かりを落として、油足りなかったかと呟いてる。
ごそごそと荷物を漁るその背中を見ながら私は窓に近づいた。窓枠にはめ込まれた木の窓は打ち付けてある様子はなかった。そっと押せばぎぃと鳴く。力を入れて開けようとする私にラハが背後から声をかけてくる。
「開けたいのか?」
伸びてきた腕が窓にかかる。くっとその腕の筋肉が動くとゆっくりと音を立てて窓が開く。隙間から入り込む夜風が泣き腫らした顔に心地良かった。開いた窓から見上げた夜空は星が瞬いていた。
「はい」
不意に手渡されたボトルを落とさないように受け取る。ちゃぷりと波打つ液体の音とすでに飲み始めているラハの様子に渡されたものが水だとわかった。きゅぽんと栓を抜いて喉に流し込む。嚥下する水分が乾いた喉を潤していく。
「もう大丈夫?」
あらかた水分をとって空を見上げ始めた私の手から、ラハがボトルを持っていく。それをカバンの横に置いて戻ってきたラハが背後から私を抱きしめた。
「…逃げないよ」
「わかってる……私が、こうしたいんだ」
先程までの押し付けるような強さは見当たらず、拘束を主目的としない抱擁は暖かかった。
「夜風は冷える。そろそろ閉めるよ」
ばたりと閉まる窓を見つめたまま動けない。それはラハも同じだったようで2人で代わり映えのしない木の窓を見つめ続けている。
「泣いて、疲れたろう」
口火を切ったのはラハだった。
「ゆっくり、寝るといい」
そっと腕を引かれて傍のベッドの前まで導かれる。ベッドとラハを交互に見つめた私はそっと彼に明け渡すように腕を動かす。
「……? あぁ、私はソファで大丈夫だから」
「?? 私がソファで」
お互いに顔を見合わせながら首をひねる。
「ラチがあかないな」
ラハはぐいっと私を引っ張るとベッドの縁に私を座らせた。
「ノワールが、こっち」
私はあっち、そう言いながらソファに向かいかけるラハの服を反射的にぎゅっと摘んだ。
「うん?」
摘んだ指をぼんやりと眺める。誰かを呼び止めようとしたことなどなかった私は行動の意味を探す。
「……あの、これは、その…」
気恥ずかしさで顔が赤くなるのがわかる。泣きすぎたせいと思ってくれればいいのだが。
「…ラハさんが、ベッドで」
探してた言葉とは違った気もするが、 本心の一部なので良しとしておく。
目線を合わせるようにしゃがみ込むラハの動きに摘むだけだった指は簡単に解かれる。行き場を失った私の指を、ラハがそっとすくい上げる。
「…それは、お誘いかな?」
ちゅっと音を立てて指先に恭しく口づけが降りてくる。言われた言葉を反芻してさらに顔が赤くなるのがわかる。
「ち、がうっ…! 私がソファに行くから」
「却下」
すぱりと言葉を落とされて、言葉に詰まる。
「…元より、私はあまり眠れるたちではなくてね。気にせずにノワールはベッドで眠るといい」
「…眠れないの?」
問いかけに、困ったようにラハの顔色が曇る。聞いてはいけないことだったのだろうかと萎縮する私の掌をラハの指が撫でていく。
「眠れない、とはまた違うのだが…」
言葉に詰まるラハに、言いたくないならいいよと声をかける。優しい指の感触がざわめく心とは裏腹に静かで心地良かった。
「とにかく、私のことは気にせず」
言いかけたラハの指をきゅっと掴む。その掴んだ指をまたぼんやりと見つめる。
「ノワール?」
押し黙る私に優しい声が降りてくる。意識を揺り戻される。
「もっと、話を……違う……」
「うん?」
言葉がうまく選べない。表現の仕方がわからない。ここにいて欲しいの一言をうまく伝えられない。
「……いか、ないで?」
何かが違う気もする。でも伝えたいことの半分は伝われば、そう思って顔を上げればぽかんとしたラハの顔が目の前にあった。
「……あぁ、もう!」
ラハの腕が私を抱き上げるとその勢いのままベッドに押し付けられた。覆い被さる影に何か悪いことを言っただろうかとおろおろと視線を彷徨わす。
「…誘ってるのか? あんたは…」
時折見える若々しい粗野な口調を、私は知らないはずなのに懐かしさを覚える。これはきっと、体の記憶だ。
「誘って……ち、ちがうの、そうじゃなくて」
どうやら言葉選びを失敗していることにようやく気づく。私の肩口に額を押し当てて大きなため息をついたラハがボソボソと呟く。
「だよな、そうだよな…あんたはいっつもそうやってオレをかき乱すんだから…」
「ラハ、さん…?」
もう一度大きなため息を吐かれる。離れていく顔を見れば、悔しそうに歪む顔が映る。
「あんたを傷つけることはしないよ」
それはきっと私ではない。この体に対して言われた言葉だ。泡が消え去った後に傷だけ残るのは、私だって避けたい。
「たぶん、同じ気持ちだと、思う」
「うん」
ラハの顔が近い。その赤い瞳の中に困ったように頬を赤らめる自分が見える。なるほど、誘っているような表情はこういうものかと妙に納得する。
傷は残したくない、それなのにどこかで覚えておくための何かを残しておきたいと渇望する私がいる。
その頬に両手を伸ばす。ぴたりと掌を当てればじんわりとラハの熱が伝わってくる。
「そばに、いて」
「……うん」
ラハの顔が今一度私の肩口に埋まる。私はその髪を指で梳く。暖かいな、と思った。
はじめて、ここにいたいなって、思った。
++
目覚めた君は私の腕の中でたいそう驚いていた。その様子に泡が消えたことを悟った。
記憶がない君があれこれ詮索する前に一度クリスタリウムに戻ろうと提案して帰路につく。戻った水晶公はすぐさまアリゼーたちに連絡を取った。
「ほんっっっとに、心配したんだからね!!」
今にも泣きそうな顔で英雄殿に噛み付くアリゼーをアルフィノがなだめる。
「大丈夫だった?」
2人に聞こえないほど小さな声で、ヤ・シュトラが水晶公に尋ねる。
「少し甘えたかったんだろう…英雄殿も肩肘張りっぱなしではいられないだろうしね」
率直な感想を伝える。腕の中にまだ残る温もりは、私だけのものだ。
「…これきりだと、いいんだけど」
おそらく少女がいなくなるたびに呟いたであろう言葉を吐き出して、ヤ・シュトラはわちゃわちゃと騒がしい3人に近づいた。
いくつかの会話の後、3人が去ろうとする。アリゼーが早く来なさいと英雄殿に捲し立てる。すぐに行くと伝えた少女が水晶公に向き直る。
「迷惑かけちゃったみたいで…ごめんなさい」
「謝らないで。ずっと張り詰めていたんだ、息抜きだったと思って」
しゅんと小さくなる少女の様子を眺める。同じように小さくなっていたその様子とは明らかに違うのを感じて少しだけ寂しくなる。
「ほら、アリゼーにまた怒られるよ」
「う、うん」
少女がそれだけは避けたい、と星見の間を後にしようとする。
扉が閉まる前、ちらりと振り返った少女が少し寂しそうな瞳でこちらを見る。
「…またね、ラハさん」
声をかけるより早く、扉が閉まる。伸ばしかけた腕を下ろして見つめる。
「なるほど、この思い出は確かに…」
きっと今私は泣きそうな顔をしているんだろうな。水晶公は一人きりの部屋で静かにため息をついた。
プカリと浮かんだ泡が弾ける音がした。
――――――――――
2019.09.13.初出