その日、私は酷く疲れていた。
 昼過ぎから続いた打ち合わせはとっぷりと日が暮れるまで行われ、合間にコーヒーを幾ばくか胃に入れただけで腹も空いている。知識は満たされたが、胃の腑は音がなりそうなほど凹んでいる。
 自宅の最寄り駅に着いた時には22時になろうとしていた。もういっそ24時間営業の牛丼屋にでも行ってとりあえず満たしてしまおうかとも思ったが、それをするには些か時間が遅すぎる。
 壮年になった自身の体には、この時間の多量の脂は毒でしかない。匂いにふらりと揺れそうになる心を押さえつける。今食べたら、絶対明日胸焼けだ。
 冷凍庫の中に冷凍ご飯でもあっただろうか、それを温めてお茶漬けにしてしまうか…そう考えながらいつもの不動産屋の角を曲がって、ふと顔を上げた。
 今まで気にしなかった、小さな看板。目線よりも高い場所にある文字だけ光る看板に目が吸い寄せられたり。

《Bar:Azure》

(こんなところに…バー?)

 くるりと見回せども、もう営業時間を過ぎた不動産屋と写真屋、その間の細い木製の階段しか見当たらない。階段の向こうから、柔らかな明かりが路地を照らしている。
 まさか、この奥に?
 不審に思われやしないだろうか、そう心の中でだけ呟きながら、そっと階段を見上げてみた。オレンジ色の優しい明かりがぼんやりと輝いてる。引き寄せられるようにそっと、階段に足をかければぎしりと音が鳴った。
 未知のものへの好奇心は、この年齢になっても留まるところを知らず…むしろこんな〝職〟についてしまったがばかりに膨らんでいくばかりだ。
 空腹も忘れ階段を上り切れば細い廊下の突き当たりに黒い小さな黒板。そこに記された店名とドアを示す矢印。左右に大人3人ほど並べばいっぱいな、等間隔に扉の据え付けられた廊下を進めば、矢印の先に明らかに様子の違う扉があった。
 舷窓を思わせる丸窓からそっと中を除けば、カウンターとその向こうでこちらに背を向ける人影が見えた。あかりはついている。
 意を決してドアを引けば、からりころりとドアベルが軽快な音を立てた。音に気づいたカウンターの向こうの人影が、こちらを振り向いた。

「…いらっしゃい、ませ」

 撫でつけた長い前髪と、細い三つ編みに結ばれた髪がその言葉と一緒にぺこりと下がった。

「…こちらへ」

 小さな誘う声と共にカウンターの奥へおしぼりを置かれて、私は吸い寄せられるようにそこを目指した。
 薄暗い照明、音量を抑えられたジャズのゆったりした音、茶色と黒が基調の店内。あぁ、まさしく隠れ家的なバーに来たのだな、と私は心を少し踊らせた。

「なにか、飲みますか? …それとも、食べますか?」

 バースツールへ腰掛けた私に、カウンターの向こうから声がかけられた。

「あぁ、軽く何か食べるものと…ウィスキーを」
「…シングルで、よろしいですか?」

 こちらをチラリと見てそう告げるその声を辿るように追って一瞬だけ視線を固めた。
 色素の薄い瞳が、こちらを見ていた。

「あ、あぁ」
「お待ちください」

 サービスです、そう告げながら小さな白い角皿に盛られたミックスナッツが目の前に置かれた。
 不躾に見すぎただろうか、そう思い視線を外しながらおしぼりで手を拭く。温かいおしぼりがじんわりと指先を温めてくれた。

「今は…アイリッシュ、カナディアン、ジャパニーズが、ありますが」

 棚を見ながら告げる声に少し考えてから、アイリッシュをと告げれば、かしこまりましたと小さな声が答える。
 狭い店内だから声を張る必要はないが、それにしても少し小さな声だな、と思った。
 かたりことりとカウンターの向こうで音がして、軽食の準備も同時にされていると悟る。
 ウィスキーグラスにシングル量の琥珀の液体が注がれる。氷がグラスと触れ合いからりと音が鳴る。

「…どうぞ」

 丸いコースターの上にそっとグラスが置かれる。柔らかな店内の光を受けて琥珀の液体が揺らめいた。

「…サンドイッチで、よろしいですか?」
「あぁ、頼む」

 からりとグラスを揺らしながらゆっくりと液体を少量喉奥に流し込めば、丸みのある嫌味のないアルコールの熱が胃の腑へ落とされた。ゆっくりと嚥下した余韻を楽しみながらミックスナッツを指で摘んで口の中へ招き入れた。
 さくり、さくりと切り分ける音の後に、かたこと音が鳴って私の前に三角に切られたサンドイッチが供された。具はトマトとレタスとツナだろうか。添えられたピクルスがつやりと輝いている。

「どうぞ」
「ありがとう」

 一度おしぼりで手を拭いてからサンドイッチに手を伸ばした。二口程度のサイズに切られたそれを口に招き入れれば、しゃくりとした食感に少し驚いた。レタスの歯触りではない。ツナと混ぜられた玉ねぎの歯触りだった。くどすぎないようにふんわりとマヨネーズで纏められたそれが、胃に落ちてようやく人心地つく。

「…ふふ」

 笑うような声に顔を上げれば、色素の薄い瞳が優しく歪んでいた。

「…お口に、あいましたか?」
「あぁ、これは美味い」
「よかった……ずいぶん、お腹を空かせていらしたようでしたので」

 外から見てわかるほどだったのか、と少し恥ずかしくなればまたにこりと微笑みかけられた。

「この時間、です。あまり重すぎない方が、いいかと思いまして」

 ゆっくりと紡がれる言葉が耳に心地良かった。初対面なのにずいぶんと惹かれる自分に戸惑いながら、サンドイッチを口に運んだ。
 彼はそれきり何も言わずに食材類を片付け始めた。私も無言でゆっくりとサンドイッチを噛み締めた。添え付けのピクルスも酸味が強すぎず美味しい。少し、和風な味付けの気がする。
 ウィスキーとミックスナッツをゆっくりと時間をかけて平らげれば、そっと水の入ったグラスを置かれた。

「…チェイサーです、どうぞ」

 心遣いに感謝しながら、喉に流し込む。アルコールで火照った喉を冷えた水がするすると通り抜けていく。
 改めて店内をゆったりと見渡した。
 カウンター席が5席、大きなソファと小さな机が一つ、そして壁一面の本棚。チラリと視線を投げた本棚に目が釘付けになりかける。いけない。私は本を読み出すと止まらないのだから。
 視線を外してもう一杯飲もうかどうしようかと腕時計を見れば、時刻は0時近かった。流石にこれ以上は明日に差し支える。

「…会計を」
「…かしこまりました」

 一杯だけで申し訳ないと思いつつ会計を頼めば、会計用の伝票がトレーに伏せて置かれて出てくる。ちらりと返してその値段に驚愕する。
 安い。安すぎというレベルではないが、一般的なバーの8割程度ではなかろうか。
 ちょうどの金額がなかったのでトレーの上にお札を2枚置けば、一度引き下げられてお釣りが戻ってくる。やはり、安い。

「…また来ても、いいだろうか」

 客が尋ねるのもおかしな話だが、この寡黙な人に尋ねたくなってしまったのだ。
 きょとりと一度瞬きをした彼は、恥ずかしそうに瞳を伏せてほんのりと頬を赤く染めてやはり小さな声で告げた。

「…いつでも、お待ちしております」

 そっと店名の入ったマッチを渡されて、あぁこのレトロなものも久しく見ていなかったな、と心がじんわり暖かくなった。
 鞄を手に取って、立ち上がりながら私も告げた。

「また、来る。ごちそうさま」

 ドアを閉める私の背中に小さな声で

「おやすみなさい、良い夜を」

 そう、聞こえた。

+++

 あの日から、どれくらい経ったのだろうか
 また来る。その言葉通り再訪を果たした彼は、週に1〜2度ふらりと店を訪れるようになった。
 大きな体と長い足、ゆらりと揺れるように歩く様が男らしいと思った。その手も大きく首も太いのに、顔はとても小さくそのくせ全てのパーツが整っている。それになにより目に引くのは、その髪。全体としては濃い目の焦げ茶で短く整えられているのだが、ふた房程度の量の前髪が白く、それが彼のミステリアスな容貌にとてもマッチしていた。見比べた自分の体が、同じ男なのにずいぶんみすぼらしく見えた。それぐらい、いろんな質量が違った。
 名前も知らない、何をしている人なのかも知らない、ただのお客さん。それなのになんだか惹かれるのはその低い声のせいだろうか。あの時成長を拒むようにぴたりと止まった自身の様々な事象が、ほんの少しだけ恨めしく思えた。

 その彼は、今や定位置となったカウンターの1番奥で、ゆっくりとモスコミュールを飲みながら本を開いている。

「シュトラ、明日も、仕事じゃ?」

 店内の自分だけが見える位置にある時計をちらりと見ながら、ドア横の席に座る旧友に声をかける。

「えぇ…やだ、もうこんな時間? ここにいると時間を忘れてダメね」

 短い髪を揺らしながら笑って、シュトラと呼び掛けた女性はハンドバッグからお財布を取り出している。

「おいくらかしら」
「…どうぞ」

 そっとトレーを差し出せば金額を確認せずにお札が3枚。尋ねながらもきちんと計算されているのだから恐れ入る。お釣りを返して立ち上がったシュトラはお酒を飲んだ後とは思えないほどピシリと真っ直ぐ立った。

「ごちそうさま、おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」

 手を振って出て行く彼女を見送ってから、カウンターの上をサッと片す。グラスとお皿を引き上げて軽く拭いてしまえばそれでおしまいだ。
 食器をできる限り音の出ないように片付けながら彼の方を見れば、モスコミュールは半分よりも減っていた。
 グラスに氷を落として、ミネラルウォーターを注いで新しいコースターと共に差し出せば、本から顔を上げた彼がふわりと微笑んだ。うす気味の悪い自身の瞳と違い、甘い蜂蜜をとろりとさせたような金糸雀色の瞳が歪むのがとても綺麗だ。その瞳に見られると、なんだか気恥ずかしくなってつい顔を伏せてしまう。
 彼はお冷の入ったグラスを手に取ると、本に視線を戻しながらそれを嚥下した。こくりこくりとその喉仏が動く様が妙に色っぽくて、あぁ色男はこんなところまでかっこいいのかとぼんやりとそれを目で追いかけそうになってしまう。いけない。彼はただのお客さんなのだから。好奇の目で見るなど1番してはいけないことだ。
 彼はもう少しここにいるだろうか。深夜は越えた時間だが、読んでいる本の区切りが良くなさそうだな、と感じた。
 この店にもそれなりに本がある。自分で選んだものだったり、客が置いていったものだったり様々だ。ジャンルも、時代も、バラバラなのに、本棚に並べれば最初からそこにあったかのようにストンと収まる様が嬉しかった。…それでも壁一面の本棚から溢れかけている事実は、そろそろ受け入れないといけないが。
 元々客足のない時は本だけを読んでいたのだ。ここ最近は彼が来てくれるからそんな時間もなかったが、そろそろ新しい本を入れてもいいのかもしれない…現実からちょっとだけ目を背けながらそんなことを思っていれば、視線を感じた。
 視線を追えば、先ほどふわりと歪んだ瞳が、今度はじぃっとこちらを見ていたのだ。あまりにも真っ直ぐな瞳に、つい目を伏せがちにしてしまう。

「な、なにか、足りませんか?」

 何を聞いているのだ、と自分でも思う。ただの注文の催促かもしれないのに、足りないものを訪ねてどうするというのだ。
 だが、彼はパタリと読みかけの本を閉じると頬杖をつきながらくすりと笑って口を開いた。

「ずいぶん…熱心に手元を見られた気がして」

 そんなに見ていただろうか、と顔が赤くなる。

「す、すみません」
「いや…本が、好きなのかなと」

 問われた言葉に、少しだけ顔を上げた。金糸雀色の瞳がこちらを見ている。

「好き…です」

 口に出してたっぷり3秒固まってから、言葉が足りなすぎたとさらに体が熱くなる。変な誤解をされないといいのだが。

「そうか」

 少し嬉しそうな顔で笑った彼は、そのまま背面の壁一面の本棚を見やった。

「最近では電子書籍もずいぶん増えたが…私は紙の本が好きでね。バーにここまで様々な本が並んでいるのを見ると、心が躍るよ」

 その背表紙を眺める瞳が本当に楽しそうで、つられて自分も本棚を眺める。

「じ、自分も、紙の本が好き、です」

 今度はちゃんと言葉を紡げただろうか。なんだか小さく震えた声になってしまったなと恥入れば、うんと小さく頷く声が聞こえた。

「だと、思った」

 こちらを見ていた瞳が柔らかい。少し頬が赤い。
 今日はモスコミュールの前にマティーニを飲んでいた。普段はもう少し飲んでいることを考えると、酔いが回ったということはないと思うのだが。そんなことまでわかるほど通ってもらえているという事実に、心が少し軽くなる。

「最近も本を?」

 モスコミュールに再度口をつけながら彼が訪ねてくる。

「そう、ですね。歴史小説、とか」
「ほぅ」

 ため息のような相槌が、低くバーを漂って行く。

「この間、新刊が手に入ったので」
「どんなのだろうか」

 本好きとして気になるのか尋ねてくる声が少し弾んでいる。

「あの、エメトセルクさんの、本で」

 告げた声に息を飲むような音が重なる。え? とそちらを見れば、片手で口を覆ってこちらを見ている。その眉間に刻まれた皺ですら彼を大人の男たらしめていた。

「あ、あぁすまない。そうか、あの本か…」

 口の中で呟いた言葉に首を捻るが、返答はない。何かまずいことでも言ったのだろうかと自身を振り返るも、本の作者名しか告げておらず、目の前の相手はかの作者の本は嫌いだっただろうか、と少し寂しくなった。

「…あの本は、良い出来だった」

 こちらの気配を察知したのか、短く彼がそう告げた。どこか近いようで遠いその物言いに疑問だけが増えていく。

「…あぁ、誤解しないでくれ。別に嫌いではないんだ、ただ…ちょっと色々あってね」

 言葉を濁された。客と店員、踏み入ってはいけない領域に手をかけていたと悟り素直に謝る。

「…いえ、すみません」

 バツが悪そうにモスコミュールをもう一口飲んだ彼に、話題を変えようと今読んでいた本を尋ねた。

「あぁ、これは写真家の随筆だな」

 見せてもらった作者名は知らない名前だったが、その表紙の写真にはとても目を惹かれた。

「…素敵な表紙の本、ですね」
「あぁ…読み口も軽くてね。写真家が各地を旅してそこで触れた事柄がするすると読めるように仕立てられているのさ」

 彼の語り口に俄然興味が湧いた。本屋に行こう、明日にでも…そう決意するまでに時間はかからなかった。

「…まだ、読み終わってません、よね?」
「あぁ…本読みならわかるか。もう少しかかりそうなんだが…」

 ちらりと彼が腕時計を見た。自分も店内時計を見る。時刻は1時半を過ぎたところ。閉店時間にはまだ早いが、普段なら彼はそろそろ店を出る時間だ。
 彼は迷っているようだった。もう少し読みたいという気持ちと、もう帰るべきという気持ちで揺れ動いている。

「…明日」

 口からするりと溢れた自分の言葉に自分が1番驚いた。

「…明日、も、お仕事ですか…?」

 彼もそう問われると思っていなかったのか、その瞳を2度瞬かせてから首を横に振った。

「な、なら、もう、お店閉めます、から」
「っいや、これは私の問題だから」

 こちらの言葉に慌ててそう声が出た彼に思わずびくりと跳ねてしまった。普段聞かない、少し焦った強い音だった。

「す、すまない」
「いえ、あの、今日はもう、来ないと思うんで、少し閉店作業だけ、しても」
「いや、あぁ、うん、かまわない」

 お互いになんだか照れ臭くなって、顔も見れないままギクシャクと動いてた。
 何を言っているんだ自分は。強引すぎるじゃないか。呆れられても仕方がないし、もう2度とここには足を運ばないとなってもおかしくないじゃないか。
 布巾を2度無駄に絞ったところで、彼から声をかけられる。

「その…実は、ここで読み切りたいと、思っていたんだ」

 はにかむような声で告げられて、気恥ずかしさが増していく。

「で、でしたら、ソファの方へ…そこより、座りもいいと、思います…」

 背後のソファを示せば、彼は少しだけそちらを見てから、ありがとうと笑った。彼が移動したのを見てから、カウンターから客席へ。まずはドアを開いてクローズの看板に掛け替えてから、閉じたドアの舷窓のカーテンを閉める。これで外からは閉店と見えるはずだ。
 彼の方へ目をやれば、大きなソファにその背を凭れながらも行儀よく座る姿があった。奥のカウンターから、彼の飲みかけのモスコミュールとお冷をソファ脇の小さなテーブルに乗せる。
 彼はもう本に夢中だ。ほっとしたと同時にそんな姿が可愛いなと思ってしまい、いい大人に可愛いと思うなんて、と気持ちを切り替える。
 ずれた椅子を直してカウンターの上を拭き、彼がいるから床掃除は明日へ回して洗い物をしてしまう。ざぶざぶと手早くグラスとお皿を洗って伏せておく。お酒と食べ物の在庫を確認してメモを取り売り上げをそっと数える。
 雀の涙ではあるが、彼や友人が不定期に来てくれるおかげで、収入と呼べる程度には手元にお金が入るようになった。本業はこちらではないとはいえ、ありがたい限りである。そのほか細々とした雑事を行えば1時間が経っていた。
 彼に目を向ければ、どちらのグラスも空になっていた。新しいグラスをふたつ。そこへ氷を入れて、自分用に作って冷やしていた麦茶を注ぐ。彼の横の机からグラスをふたつ下げて、麦茶の注がれたコップを置く。
 もう一つをカウンターに置いたまま、さて自分はどうしようかと視線を巡らせる。気にしていた彼には悪いが、話題に上げたエメトセルクの本を読みたくなった。壁の本棚の1番奥から本を取り出す。他の人に読まれないように、読みかけはここに置くようにしていた。
 バースツールに座って肩肘をカウンターに行儀悪く置いて本をめくる。重厚な歴史小説は、その独特な書き味を伴って目の中に滑り込んでくる。この文体が好きなのだ、とうっとりと目を細める。互いにページをめくる音だけが狭いバーの中を支配していた。

 どれくらいたっただろうかと顔を上げれば、本を閉じた彼が、ソファに深く座ったまま瞳を閉じていた。近づけば、規則正しいゆったりとした呼吸音。読後の余韻に浸ったまま眠ってしまったのだろうか。机の上のグラスは空になっていた。
 どうしようかと思案して、取り敢えず隣の自室から比較的綺麗なタオルケットを持ってくる。男の一人暮らしだ。客用布団がないのは見逃して欲しい。
 タオルケットを手に戻りがてら、店内の照明をうんと弱くする。そっとその膝にタオルケットをかけてから、いやでもこれは寝にくいのではと声をかけるべきか迷っていたら、影になったことで目が覚めたのかぼんやりとした瞳がこちらを見ていた。

「あ、あの、」

 声をかけようとした。したのだ。でも、声を出し切ることはできなかった。
 彼の大きな手が、こちらの腕を掴んでいた。手首を掴んでもまだ余る指に捉えられる。そのまま強引に引き寄せられて、彼の上に倒れ込みかけた。
 辛うじてソファに膝をつくことで回避した、と思ったらもう片方の手が背中に伸びてきてソファの座面に沈む彼の上に引っ張られた。
 彼の背よりはほんの少し大きく広い座面で良かった、と関係のないところでほっとしながら、これが現実逃避かと自身の状態を棚に上げる現状に脳が回転をやめていく。
 彼の上にほぼ全身を乗せてしまっている現実をなんとかしようと思うも、彼の両腕は、がっちりとこちらの体を捉えているし、彼自身はすでに夢の中のようだった。ゆっくりとはいえお酒を飲んで、機嫌良く読みかけの本も読破できたとなれば、気が緩む気持ちも分からなくもない。
 触れた場所が熱い。男同士なのに、男同士だからか嫌悪感はなく、あんなに苦手だった人の体温が何故だか心地良かった。
 とくり、と音がする。ゆっくりとした彼の心音が触れ合う場所から浸透してくる。とんとんと背中を支える手があやすように動いた。その大きな手が暖かかった。
 この気持ちはなんだろう。どうしてこの人はこんなに心地良いのだろう。あんなに触れ合うのが怖かったのに。
 疑問は尽きなかったが、暖かな温もりとゆっくりとした彼の音が、次第に自分をも夢の世界へと誘っていた。

 目覚めて起きたらちゃんと謝って、離れなきゃ。

+++

 互いに気恥ずかしい朝を迎えたあの日、もう彼はここに来ないかもしれないな、と思いながらいつものように店を開けば、珍しいお客さんが顔を見せに訪れた。

「久しぶり、じゃない?」

 そう声をかけて注文されたビールを手渡せば、ふへ、と笑う声と共に赤銅色の髪が揺れた。

「やぁっと論文に目途がついたんだよ」

 勢いよく喉へビールを流していく彼は、ミックスナッツをひょいひょいと空中へ投げるように放っては口の中へ入れていく。
 この建屋は1階に不動産屋と写真屋が入っており、2階は今自分たちがいるバーの他に貸し部屋が4部屋と自分の部屋と倉庫がある。彼はその貸し部屋の一室の住人だ。

「お疲れ様」

 そう言ってピクルスをサービスと差し出せばニコニコと笑いながらそれを口へと運んでいく。ピクルスはしゃくしゃくと小気味よい音を立ててその口へ吸い込まれていく。

「クルルさんは、元気?」
「元気も元気。今日も教鞭で尻を叩かれたよ…」

 はーっと大きく息を吐いて首を振るその姿にくすりと笑う。彼グ・ラハはここから5駅ほど離れた大学で助教授をしている。クルルさんは彼の上司にあたる教授だ。
 ビールをもう一杯注文しながら、グ・ラハは目を細める。

「まぁ、論文の目途が立っただけで終わったわけじゃないから、明日からまた缶詰に近いんだけどな」

 ジョッキを下げてジョッキを差し出してその顔を見れば、少し無理をしているのか目の下に薄く隈ができている。

「体には、気を付けてね」
「体が資本だからな! そこは大丈夫だよ」

 二杯目のビールに口をつけたところで、からりころりとドアベルが鳴る。珍しい二人目のお客様か、とそちらへ視線を向けて固まった。
 黒の着流しに羽織という格好で店へと足を踏み入れたのは、今朝互いに気まずさのまま別れた彼だった。視線が交わったのに気付いて、恥ずかしくなって少し俯きながらいつもの席へとおしぼりを置く。

「ど、どうぞ…」

 小さく頷く素振りをして席に座る彼がウイスキーのシングルを頼んでくる。ミックスナッツを差し出して準備を始めたとことで、グ・ラハがかたりと立ち上がった。

「あ、あの! もしかして、エメトセルクさんでは…?」

 飛び出した名前にびくりとして思わず彼を見る。彼も驚いた顔をしてから…気まずそうな表情でこちらをちらりと見た。

「……失礼、どこかでお会いしたことが…?」

 どこか固い印象の声色が彼の口から紡がれて、その声音の低さに背筋に寒気が走る。彼がこんな固い声を出したことは、今までなかった。

「以前に、サイン会で。あなたの本は学術的資料としても価値が高いのでゼミでもみんなで読んでいるんです」

 少し興奮気味に続くグ・ラハの声にぼんやりとしていると、彼からちらりと視線を送られた。はっとしてウィスキーをグラスに注いで彼の元に差し出しながらグ・ラハをたしなめる。

「グ・ラハ、あまり…」
「あ、あぁ、すまない。つい興奮してしまって」

 素直に謝るのは彼のいいところだと思う。ウィスキーを受け取りながら軽く苦笑いした彼はそれを一口呷った。
 ちらちらとそちらを見ながらビールを一気に呷るとグ・ラハは席を立った。

「マスター、つけといて」
「来月の家賃だよ」
「わかってるって」

 立ち上がりながらグ・ラハは彼にぺこりと頭を下げる。

「失礼いたしました。どうぞ良い夜を」

 顔を上げると今度はこちらに気持ちのいい笑顔を向けてカバンを手に取る。

「また来る、おやすみ!」

 来た時と同じ軽い足取りでグ・ラハは店から去っていった。嵐のような激しさだった。
 その名残を綺麗にしながら、彼に向き直る。

「すみません…騒がしくて」
「いや、君が謝る事では…」

 今朝の一件があったためになんだか気恥ずかしい気持ちのまま、目を見ることができない。

「昨日は」

 少し硬いままの声が聞こえて、その目は見れぬまま形のいい唇が音を紡ぐのだけ見ていた。

「すまなかった…騙すつもりではなかったんだが」

 その言葉に昨日の話が蘇る。エメトセルクの名前を出した途端にその眉間に皺がくっきりと寄ったことを思い出す。

「いえ、あの……ごめんなさい」
「君が謝る事じゃないだろう。隠していたのも言わなかったのも私だ」

 からんとグラスの氷が鳴る。その音に慌ててチェイサーを用意する。うちのバーでは最初の一杯の後にチェイサーを出すようにしている。お酒は楽しく美味しく飲んでほしいからだ。

「まぁ…隠していたのは事実か。最近は顔を出すことを控えるようにしたからばれる事はないと思ったんだが…」

 数年前のサイン会に来ていたとは、そう笑いながら彼は最後の一口を飲み切った。
 彼の二杯目に選ばれたバーボンとチーズか何かあるか?という問いかけに頷いて準備をする。氷は、と問えば頼むと返ってきた。
 大きい氷をふたつ口の広いグラスに入れてバーボンを注ぎ込む。ウィスキーのグラスと交換するようにバーボンを差し出す。チェイサーがなくならないようにだけ気を配りながら、チーズを用意する。マスカルポーネにイチジクを混ぜ込んだものを皿へ落として横に雑穀クラッカーと自家製ピクルスを添える。

「ほぉ…」

 小さなフォークと一緒に供すれば、感嘆に似た声が上がった。喜んではもらえたようでほっと息を吐く。
 その長い指が小さなフォークを手に取ってチーズを取り分ける様をぼんやりと眺めた。着流を着こなしたその姿に洋の取り合わせが艶めかしく感じられた。
 あまり人の来るようなバーではないため、メニューはあってないようなものだ。常連は腹の好き具合によってはガッツリご飯すら要求してくる。せめてバーらしいものをと数点はすぐ出せるように用意しているが、どうやら事ここに至るまでそれらは彼の口にあっていたようでほっと息を吐いた。

「ため息ばかりだな」

 バーボンをゆっくり嚥下しながら彼が告げた。

「す、すみません」

 そんなに息を落としていたのだろうか。一応客商売なのだ、気をつけねばなるまい。

「あの、エメトセルク、さん」
「あー…」

 呼びかけに、グラスがコースターの上に戻る。そういえば隠していたんだったと自身の発言の軽率さを呪う。

「エメトセルク、はペンネームなんだ」

 チェイサーのグラスを手に取って流し込みながら彼は笑った。その唇が弧を描くのを眺めている。

「…ハーデスと、呼んで欲しい」

 その口の動きをなぞるように自分の口も動く。

「…ハーデス」
「あぁ…せっかく見つけたお気に入りの隠れ家なのでね。出来れば仕事の事は忘れていたい」

 取り分けたチーズをようやく口に運んだ彼は、美味いなと小さく呟いた。お気に入り、と言われた事に、心が浮き足立つ。

「あ、あの」

 こぼれ出た言葉に、勇気を出せとひとつ叱咤する。

「…僕の、名前…光(ひかる)、です。ハーデス、さん」

 目を見て言えただろうか、それすらわからない。それでも目の前の金糸雀色の瞳が緩く歪んでいくのが見えて告げた事は間違いじゃなかったと思った。

「あぁ…よろしく、光」
「はい、ハーデス、さん」

 彼がこの店に訪れてから、およそ一年半後の出来事だった。

――――――――――
2019.11.24.初出

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