「うまく…まとまったみたいで…?」
「おかげさまで」

 光とひかりをリビングに残して、私とヒュトロダエウスは書斎にいる。

「食事してきたのか」
「うん、駅の方まで行って食べてきたよ」

 踏み台代わりの椅子に腰掛けながら、ヒュトロダエウスが笑う。

「で? で? どうなったの」
「なんでお前に話さなきゃならん」
「ひどいなぁ、一応協力したのに」
「お前たちのせいで大変な目にもあったんだぞ…」

 取り乱した光の姿は目を閉じなくても思い出せる。息をすることもできずに真っ青になっていく様は、見ていて恐怖しか湧かなかった。

「それはごめんって…ワタシはそれ、知らなかったんだから」

 眉根を寄せて睨めば肩を竦めてヒュトロダエウスがため息を落とす。

「まぁでも…ハーデスが大変なのはこれからだけどね」
「なんだ」

 憮然とした態度を隠さずに足を組み直せば、ヒュトロダエウスが気付いてないの? と首を傾げる。

「彼の根本に性行為への嫌悪が横たわってる限り、手が出せないじゃん」

 言われた言葉に、口を噤む。

「え、ちょっとハーデス、まさかもう手を…」
「出してない、お前と一緒にするな」
「ワタシだって出してないんだけど!?」

 ヒュトロダエウスの明後日の方向を向いた叫びは無視しておく。
 失念していたわけではないが…そういう意図を少しだけ含めて触れても震えるだけで取り乱すことはなかったので油断していた。

「あとねぇ」
「まだ何かあるのか」

 げんなりとため息を落とせば苦笑混じりの声がする。

「これは本当に推測なんだけど…彼、ここまで親しい友人がいなかったんじゃないかな」
「…ん? あぁ、そうかもしれんが…」
「ハーデス、距離感気をつけなよ?」

 君も友人が多い方じゃないんだから、と余計な一言を落とされて眉を寄せる。

「君が初めての友人で恋人になるんだから」

 ヒュトロダエウスが何故か嬉しそうに笑った。

 コンコンとノックする音で会話を中断させる。
 立ち上がってドアを開ければ、ノックした張本人である光がびくりと跳ねた。

「お話、終わりましたか…?」
「あ、あぁ…そっちは?」
「と、特に、話すこともないですから…」

 きょときょとと視線を彷徨わせながら光は小さな声でぽそぽそと喋る。ぽんぽんと頭を撫でてやればびくびくと震える様が愛らしい。

「…ワタシもいるからね?」

 背後に立つヒュトロダエウスがいなかったら、このままベッドまで連れて行くところだったかもしれない。

「とにかくリビングに戻ろうか」

 光をくるりと反転させて背中を押せば従うように前に進んだ。

 リビングに戻ればひかりが置いておいた茶菓子をモグモグと食べていた。

「兄さん、これ、おいひい」
「あーあーあー、かすが落ちてる」

 ひかりの隣に腰かけてティッシュを差し出す様は兄なのか親なのか。

「いや、さっきけっこうお昼も食べてたんだけどねぇ」

 その様子を見てくすくすとヒュトロダエウスが笑っている。示し合わせたように私は光の横へ、ヒュトロダエウスはひかりの横へ座る。

「ほら」

 有無を言わさず光の口にクッキーが押し込まれて、もごもごとそれを食べているのを眺めている。

「よく入るねぇ…」
「ヒュトさんも食べます?」
「それ、私が持ってきたお菓子だけどね?」

 やや呆れながらも、ヒュトロダエウスの手はクッキーを3つ手元に引き寄せている。

「聞いてよ光くん、この子、さっきオムライスとサラダにデザートまでペロリだったんだよ?」
「わー、わー!! 言わなくていいです!!」
「…流石に食べすぎじゃ?」
「成長期だもん!」

 最年少ゆえの力強さでえへんと胸を張るその姿に、光が溜息を吐く。
 ぎくしゃくしていた兄妹関係はどうやら落ち着くべきところに落ち着いたようだ。

「…ところで光」
「っん、はい、なんですか?」

 口の中のクッキーを小さな口を一生懸命動かして崩しながら光が私を見上げてくる。

「…君の部屋、暖房器具は?」

 彼を家に帰すにあたって最大の懸念事項はそこだった。ざっと見渡した限りでは暖房器具が見当たらなかった。

「え、今11月だよ?」

 自他ともに認める寒がり、学生時代には冬眠するから早めに課題をくれと教授にせびりに行った男ヒュトロダエウスが、ぽかんとした顔で光を見ている。

「…ありません、けど」

 私の顔を見た光がびくりと震え、その向こうにいるひかりとヒュトロダエウスまでもが口を噤む。

「もう一泊、かな」
「いっそ冬の間住んでれば?」

 ひかりとヒュトロダエウスがあーあ、と呟きながら光に告げる。その光は、今にも泣きそうな顔をしてこちらを見ている。

「…冬の間でも私は構わんぞ」

 必死に首を横に振る光はかたかたと震えている。怯えているのはわかるが、こればかりは引く気にはなれない。

「まぁ…諦めて?」

 ヒュトロダエウスが肩を竦めるのを、青い顔をしたまま光は見つめていた。

「…うん、ハーデスさんもっと怒ってやって」
「ひかり!?」
「兄さんほんっと自分のこと大事にしないから! 今だってたぶん頭の中では、夜はお店にいるからいいや、お店閉めたら部屋に戻らなきゃいいや、そう思ってるから」

 ぷんぷく膨れる姿は妹というより確かに娘の方が近いのかもしれない。言われた本人はどこまで青くなれるのだというほど真っ青になっていく。

「…ほぅ?」

 ひどく悪い顔をしている自覚は、ある。わざとやっている自覚も。

「ハーデス、顔、顔」

 ヒュトロダエウスがひかりの肩をあやすようにぽんぽんと叩きながら笑った。

「よほど家に帰りたくない、と」
「か、かえり、ます」
「帰せると思うか?」
「ひぃっ」

 震えあがる光が逃げるようにひかりに手を伸ばすのを、腰をぐいっと掴むことで制する。

「ひ、ひかりのうらぎりものぉ」
「うらぎってないもーん、毎年毎年私は注意したもーん」
「…まって、今ひとつ気づいちゃったんだけど」

 ヒュトロダエウスが口元に手を当てたまま呟く。

「その…暖房もない部屋に、ひかりちゃんお泊りに行ってたの…?」
「そうですよ」

 あぁ、地雷を踏んだな。ヒュトロダエウスの瞳がすぅっと細くなる。こいつは怖いぞ、私なんかより断然。

「ハーデス」

 私は光の腰からぱっと手を離した。口元がどれだけにこやかでも、目が笑っていない時のヒュトロダエウスには、逆らってはいけない。

「もう、君が抱き潰せばいいんじゃないかな」
「ヒュトロダエウスさん!?」
「抱き?」

 光が真っ青を通り越して真っ白になる。その向こうできょとんとひかりが首を捻っている。
 うん、ひかりはそのままでいいんじゃないかな。君が好きなヒュトロダエウスは、たぶん君を抱き潰すだろうけど。

「抱き?」

 見上げてくるひかりを、お兄さんに聞いてごらん、とヒュトロダエウスは笑顔で促す。おぉ、怖い。私に聞けと言われなくてよかった。

「忘れて…ほんと忘れて…」

 光が頭を抱えてうずくまった。助け舟は…悪いが出せないし出したくない。ヒュトロダエウスの視線が怖いから。

「まぁ、冗談はさておき、それはちょーーーっといただけないなぁ」

 全然ちょっとでないちょっとをアピールしてヒュトロダエウスが喉の奥で笑っている。

「ここで一生ハーデスに飼われるか、きちんとした暖房器具を買うかぐらいは選ばせてあげるよ」
「ひっ」

 にっこり笑う目は一切笑っていない。

「ヒュー、顔」
「おっと」

 手に持ったクッキーをひとつ口の中に放り込んで、ヒュトロダエウスがにこりと笑う。今度は目も笑っている。

「ひかりちゃんも、そういう時はお財布奪ってでも買いに行っちゃっていいんだよ?」

 ぽんぽんとあやすようにその頭を撫でる姿は、普段のちょっとおかしいヒュトロダエウスだった。

「うーん、まぁ、私はもっと早い時間に寝ちゃってたから…」

 彼女も彼女で、なかなか打ち抜いていくタチのようだ。流石は兄妹というべきか。
 ヒュトロダエウスの顔が一瞬だけ歪んだが、ひかり相手には人当たりの良い自分でいる事に決めているらしい。すぐにいつものぽやんとした柔らかい笑顔になる。

「まぁ、どうするかはハーデスに任せるよ」
「お前のせいでこっちの毒気はすっかり抜かれたぞ」
「ありゃ、まぁ、上手いことやってよ」

 ひらひらと手を振りながら2つ3つとクッキーを口の中に放り込んでいく。土産に持ってきたクッキーをほとんど自分で食べている姿は、逆に潔い。

「ハーデスお茶ちょうだい、お茶」
「あぁ」
「あ、手伝います」

 私が席を立つとひかりがさっと立ち上がる。2人でキッチンに立って彼女にコップを4つ手渡す。

「こっちは私が持とう」

 作っておいた麦茶の入ったピッチャーを抱えながらちらりとソファを見る。何事かヒュトロダエウスに囁かれた光がぴくりと跳ね上がった。

「甘くないぞ」
「だから甘いお菓子を買ってきたんじゃない」

 ヒュトロダエウスになにを吹き込まれたのか、ソファの上で跳ね上がった体勢のまま光が固まっている。
 わざと音を立てるように麦茶のピッチャーを置けば、光がこちらを見る。見事なまでに泣きそうな顔をしている。

「…冬眠するタイプの人間は、怒らせないほうがいい」

 私はヒュトロダエウスから視線を外しながら、そう告げることしかできなかった。

+++

 ずっと動いてなかったから散歩代わりに、と駅までひかりとヒュトロダエウスを送るついでに4人で食事もした。
 ハーデスとヒュトロダエウスは僕らよりもずいぶん大きくて、彼らの後ろに立っていた僕らはその上背に隠れてしまう。

「2人並ぶと、壁だね」

 ひかりがくすくすと笑うのを僕は見上げたまま聞いていた。
 エメトセルクの本に書かれた著者近影には年齢も書かれていたはずだ。確か、40と少し。僕と10ほどの差。成長しなかったことを恨んでも仕方ないが、人との差を思い知らされる。きっともう少ししたら、ひかりにも追い抜かれる。

「…兄さん?」

 かけられた声と、伸びてきた手は違うものだった。
 ハーデスの手が確かめるように僕の首元を覆うマフラーを直す。

「疲れたか?」
「っ大丈夫、です」

 とんとんと背中を押されてひかりと共にハーデスたちの前を歩かされる。
 …そもそも僕ら、外から見たらどう見えてるんだろう…

「大丈夫?」

 覗き込んでくるひかりに笑いかける。またこんなふうに君に笑いかけることができると思っていなかった。

「兄さんすぐ無理するからなぁ」
「して、ない」

 後ろから睨んでくるハーデスが怖い。ひかりから放たれる僕のあれやこれやを聞き漏らさないようにしているのがわかる。

「熱出して連絡なかった人には発言権ありませーん」
「…そもそも、熱出すと思ってなかったし」
「思ってても困るからね?」

 肩を竦めるひかりがはぁ、と息を吐く。

「今度はあったかい部屋に遊びに行くね」

 いつの間にか駅に着いていた。ひかりとヒュトロダエウスとはここでお別れだ。

「来ないって選択肢はないのね…」

 がくりと肩を落とす僕の背中をハーデスの手がぽんぽんと撫でてくれる。

「それじゃハーデス」
「あぁ」
「ごちそうさまでした、ハーデスさん」

 カバンからパスケースを取り出してひかりとヒュトロダエウスは笑った。

「…来るなら連絡だけはしてね」
「はーい」
「光くん、お大事にね」

 改札を通り抜ける2人に小さく手を振った。

 帰り道は無言で。
 駅から遠ざかるにつれ徐々に減っていく人波を横目に、ハーデスの家へと歩く。

(…ナチュラルにハーデスの家に帰ろうとしてるけど、このまま家に帰ればよかったんじゃ?)

 そう気づいた時にはマンションの前だった。
 歩みを止めた僕の手を、ハーデスの手が掴み上げた。

「っ、そ、外です」
「外だな」

 僕の手を掴んだまま、ハーデスはスタスタとエントランスを通り抜ける。到着したエレベーターに押し込まれると、そのまま角に密着させられた。

「は、ハーデス、さん」
「…なんだ」
「外です、ここ、外」

 身を捩って逃げようにもすっぽりと彼に覆われて動けない。

「随分気にするな」
「気に、します」

 世間の風潮がどうであれ、男性同士で密着していればよからぬ噂も立てられる。まして彼はそれなりに有名な作家だ。恋心に気づいてしまった僕といることが、マイナスになる可能性もある。
 エレベーターはぐんぐんと登っていき、ややあって14階についた。ハーデスは僕の手を掴んだままエレベーターを降りて真っ直ぐ自分の家の前へ向かう。
 鍵を開けて僕を押し込むように玄関へと入ると、扉の閉まる音に付随してガチャリと鍵も閉まった。
 ハーデスの手がようやく掴んだ僕の手を離した。横を通り抜けて靴を脱ぎマフラーを外したハーデスは僕に向き直って手を差し出した。

「ほら」

 どうしていいのかわからずにその手とハーデスの顔を交互に見ていたら、彼の手が伸びてきて僕の手を引いた。首のマフラーを外されると玄関の冷えた空気が首元に触れた。

「冷えるから、中に入りなさい」

 玄関のコート掛けにマフラーとコートを引っ掛けて、ハーデスは笑った。

 食事も終わってるし、横になるにも早すぎる時間は何をすればいいのかわからなくて、ソファに膝を抱えて座ったままぼんやりと暖房で揺れるカーテンを眺めている。
 ハーデスは隣でノートパソコンとにらめっこしている。時折頭を撫でたり指を絡めたりとちょっかいは出してくるがそちらに釘付けのままだ。

(そうだ、彼も本を読むんだから何か借りればいいのでは)

 そう気づくまでにどのくらい時間が経っていたのか、ハーデスの少し深いため息が部屋を揺らしたのでぼんやりしていた意識を戻した。
 目尻を手で強く押しているその横顔をぼんやりと眺める。

「どうした」

 ハーデスの手がそっと額に触れる。ぼんやりとしていたことで熱が上がったのかと心配されたようだ。

「熱はないな」

 ぱたりとノートパソコンが閉じられて机の上に置かれる。そちらの作業は終了したらしい。

「…あぁ、すまない…本でも、持ってくればよかったか」
「大丈夫、です…」

 額から頬へと滑るように降りてくる指に戸惑い震えながらそう告げることしかできない。彼の触れた箇所がほんのりと熱を帯びていく。

「あまり…そう硬くなられると」

 ハーデスの顔が近い。少しずつ近づいてくるその熱量から逃げようにも、気付いた時には腰をしっかりとつかまれている。

「蕩かせたくなる」
「っ」

 思わず目を閉じてしまえば、耳の横に唇が落とされる。そのまま耳たぶを甘噛みされて体が跳ねる。硬さを確認するように何度も食まれてその腕の中で跳ねることしかできない。

「光」
「そこっ、しゃべら…っ」

 耳の横に落とされる低くて心地の良い音が脳をグラグラと揺さぶる。心地良さとくすぐったさと恥ずかしさで顔がどんどん赤くなっていくのがわかる。
 頬を撫でる手が顎に添えられて上向かされる。思わず開いてしまった視界には優しく歪む金糸雀色しか映らない。近づいてくる唇がわかる。

「…っダメ…!」

 思わず、ハーデスの唇と自分の唇を手で覆った。そう来るとは思わなかったのか、ハーデスの瞳がきょとりと瞬いた。
 とろりと歪む瞳が意地悪く細められる。

「…ダメか?」

 ぺろりと手のひらを舐められて竦み上がる。
 ハーデスの手が顎から唇を覆う僕の手に移動して、力強く包み込む。そのまま手のひらに何度も口づけを落とされてびくびくと震えることしかできない。
 ずいと寄ってくるハーデスの体が隙間を無くしていく。
 腰に回されていたハーデスの手が、なぞるように腰の真ん中を背中に向かって撫でていく。

「光」

 声は優しいのに、瞳の奥にちらつく獣のような鋭さが、僕を支配しようとしている。
 ハーデスの事は好きだけれど、僕の好きと彼の好きがずいぶん違うところを見ていることを再認識する。彼がマグマだとすれば、僕のはぬるま湯にすらならない。怯えるように震えることしかできない。
 じっとこちらを見ていた瞳が、苦しげに歪んだ気がした。

「すまない、困らせたね」

 ゆっくりと離れていくハーデスに困惑するのはこちらだ。距離は詰めたままだが隣に腰かけて大きく息を吐いたその姿を見る。胸の内の熱を必死に落ち着けようとしているように見えた。
 僕の視線を感じてハーデスが顔を上げる。優しく弧を描く瞳の奥からは消しきれない炎の影が見える。

「ハーデス、さん」
「なんだ?」

 優しい声色は変わらないけれど、そのうちに秘めようとする熱が見えてしまう。

「あの…そういう、ことが、したいんですか…?」

 尋ねる声が上ずらないようにしたいのに、どうしてもちらつく扉が怖くて。あの声が聞こえると何も聞こえなくなってしまうのが怖くて。
 怯えを悟られたのかハーデスの表情が歪んでいく。困らせたいわけではないのに。

「…したくない、と言ったら嘘になるが」

 ハーデスがためらいがちにため息を落としながら声を吐き出す。吐露される思いも、熱い。

「光が…怖がることはしたくない」

 触れてもいいか、そう尋ねながらハーデスがためらいがちに僕の手に大きな手を重ねた。

「…ハーデス、さんは、怖くはないです」

 大きな手や体で覆われること自体は怖くないのだ。そこから連想される存在が、それによって呼び起こされる記憶の扉が怖いだけなのだ。

「震えているが」

 問われて、小さく体が跳ねた。震えている自覚すらない時が時折ある。

「…ごめんなさい」
「いや、すまん…」

 互いに謝罪してしまうと、気まずい空気が流れる。
 ハーデスが好きだということを素直に受け入れられれば、素直に伝えられれば、困らせることもないだろうにそれすらできない。ただ、あなたを困らせていくだけの自分という存在に顔がどんどん俯いていく。

「光」

 俯いた僕の頭上から声が下りてくる。一拍遅れて、ハーデスが僕の髪に顔を埋めたのが分かった。

「困らせたいわけじゃ…ないんです。僕が、もっと…」

 もっと、普通の人として生きていたなら。そんなどうすることもできないことをただ夢想してしまう。普通なんて縁遠すぎてどんなものかすらわからないのに。
 それでも、それでもと願ってしまう。ハーデス、あなたが悲しく顔をゆがませることがないように、と。

「…したい、ですか?」

 ずいぶんと言葉を端折って告げてしまってから、大いに反省することになる自分の癖をなんとかしたい。どういう聞き方なのだ、これは。

「光?」

 ほら、困ってる。困るに決まってる。僕が困らせてどうする。
 離れていく熱と、少し遠慮がちに僕の頬に触れる手が僕の顔を上向かせる。交わる視線は優しくて、困っているというよりは僕を心配している。

「ハーデス、さんが、したいなら……汚い、けど…」

 そうだ、僕の体を正面から見たらハーデスは嫌がるかもしれない。汚れた体を見て、気の迷いだったって言うかもしれない。それならそれでいい。いっそその方がいい。
 ハーデスの瞳が困惑で揺れている。あぁ、本当に、彼は優しい。僕の事なんて心配しないでいいのに。
 歪んでいく思考は、ひとつの考えを導き出していく。そうであった方が気が楽だ、なんて甘い思惑を脳裏に含んで。

「汚いなんて」

 ハーデスの手が僕の肩をそっと掴んだ。震えているのは僕か、彼か。

「思ったこともない」

 肩に触れる手の熱が、頬を撫でる手が、優しい。真意を測るように真っ直ぐ見つめてくる瞳の奥に燻ぶる炎を見つめることしかできない。

(あぁ、綺麗な瞳だ、本当に)

「…優しくしないで、いいです。ハーデス、さんが、したいように」

 どう伝えればいいのかなんてわからない。いつだって僕は貪られる側で、たぶん今もそうだ。
 ただ、《入れる》か《入れられるか》、その差だけだ。どうせどちらでも変わらない。
 容赦しない、ハーデスはそう言った。それでいい。
 汚いと蔑むか、肉欲を押し付けるだけの相手とするか、それでいい。
 心を素直に伝えきれないなら、いっそそれでいいじゃないか。

「光、違う、そうじゃない」

 ハーデスの首が緩く横に振られる。…違う? …そうじゃない?

「あぁ…ごめんなさい…したく、ないですよね」
「違う、そうじゃなくて」

 ハーデスはもう一度首を振ってから僕を見る。真っ直ぐ見つめる瞳が苦しそうに眉根を寄せている。
 あぁ、これは困らせている。余計な一言を重ねて困らせるつもりなんてなかったのに。

「君が大切なんだ」

 落とされた言葉を拾い上げることができずに、ずいぶんまぬけな顔でハーデスを見つめた気がした。

「そんな風に、貶めなくていい」

 あやすように頬を撫でる手が熱を伝えてくる。その熱にそっと頬を寄せれば一拍置いてから包み込まれる。じわりと伝わる熱が心地良い。

「光と…したいと思う。でもそれは、私が一方的に押し付けるだけじゃダメなんだ」

 諭すように優しく落とされる言葉に思わず首を捻ってしまった。ハーデスの眉間に皺が寄る。

「光」
「…したいなら、いいですよ。慣れて、ます」
「違う、それは慣れていいものじゃない…」

 首を振るハーデスの意図が見えない。彼が何を思っているのか、見えない。

「僕は、ずっとそういうものだったから…」

 一方的に熱を押し付けられるだけの存在だったから。それ以上でもそれ以下でもなかったから。
 それでも僕の言葉に首を振り続けるハーデスの姿を見て、ひとつの答えが導き出される。

「あぁ…これ、普通じゃないんですね」

 落とした言葉に瞳を見開くハーデスをぼんやりと眺める。
 ハーデスの手がするりと動いて、その胸の中に強く抱き留められた。

+++

「あぁ…君は、今まで」

 強く抱きしめて、吐息のように言葉は漏れたがそれ以上紡ぐことができなかった。
 食い違う会話がおかしいと気付いて、何度否定しても首を傾げるその姿に胸が張り裂けそうだった。

《ハーデス、距離感気をつけなよ?》

 ヒュトロダエウスの言葉が脳裏によぎる。距離感どころの話ではない。あまりにも歪んでいる。

「ハーデス、さん?」

 そうするのが当たり前であるかのように体を差し出すことしかできなかったというのなら、彼がどうして頑なに拒むのに、受け入れることしかできないとその身を明け渡そうとするのかが少しだけ理解できた。
 抱き留めたその頭を撫でてやれば、おずおずと体を明け渡してくる。その手は伸ばさないけれど差し出されれば明け渡すその姿に胸が締め付けられる。

「ごめんなさい」

 腕の中で小さく呟かれた謝罪の言葉を止めたくて、強く抱き寄せる。

「君は、なにも悪くない」
「…ハーデス、さんを、困らせてる」

 あぁ、そうじゃないんだ。これは困っているのではないんだ。

「困らせたくない、心配かけたくない…誰にも」
「私にも?」
「ハーデス、さんには、一番」

 その髪に顔を埋めれば、くすぐったそうに首を竦めた光はそのまま少しだけ私の胸に顔を埋めた。

「ハーデス、さん」

 胸に顔を埋めたまま、光は小さな、だがしっかりとした声色で言葉を紡ぐ。

「僕で、したい、ですか」

 問いかけに色めく香りはせず、だけれど彼はそれを意味を分かっていっている。

「僕は、男だから、上手くできないかも、ですけど」

 光が顔を上げる。色素の薄い瞳はどこまでも真っ直ぐに私を見ている。私だけを、見ている。

「僕で、したいですか?」

 あくまでも主体をこちらに委ねる物言いは本人も意図していないのだろう。先程までの話しぶりでも確信はできた。
 それが普通でないと気づいていながらも、光はそうすることしか知らない。

「光と、したいんだ」

 だから、軽い訂正を込めながらその髪に口付けを落とす。こちらが望めば望んだ分以上に差し出そうとするその体を押しとどめるように何度も口付けを落とす。

「今は、これだけでもいい」

 触れる温もりだけでもいい。ただ、光と共にありたい。
 腕の中でくすりと光が笑った。

「うそ」
「ほぅ?」

 顔を上げた光が少し恥ずかしそうに目を伏せながら私の顔に手を伸ばしてくる。そっと目の下に触れる指先を甘んじて受け入れる。

「燻ぶってる」

 身の内の熱をその澄んだ瞳で見抜かれている。生来の勘のよさなのか…本能なのか、少ない言葉で告げられるそれは光が思っている以上の鋭さで私に突き刺さる。
 一度沈めた欲の炎をその指先でもう一度灯していく。

「あれほど拒んでいたとは思えんな?」

 目の下をなぞっていた指を取り指先に口付ければ、光の頬がほんのり赤く染まった。

「…扉が」

 光がポツリと言葉を落とす。聞きなれているはずの、聞きなれない音にその真意を探ろうと耳を澄ます。

「開いて、声がするのが、怖いから」

 落とされた短い音の連なりの奥から光の真意を探ろうと思考を巡らす。

「…今は?」
「聞こえません……扉は…まだ近いですけど」

 おそらくそれは光の過去の記憶。蓋をして見ないように背けていた捨てられない記憶。聞こえる声は、十中八九母の声。
 その震える理由を聞いてしまえば、醜い劣情を押し付ける気持ちは少しずつ解れて。

「触れていたい」

 ただ光に触れていたい。

「ハーデス、さん?」
「光の、全てに、触れたい」

 その指先に再度口付けを落とせば、ぴくりと指先が跳ねた。

「…汚い、ですよ」
「汚くない」

 短い単語だけを落としていく足りない言葉から真意を探っていく。

「気になるなら…風呂でも入るか、一緒に」
「…へ?」

 ずいぶんと間の抜けた声が漏れた唇を眺めながら、わざとリップ音を立てて指先に口付ける。花開くようにその顔を赤くするさまが可愛らしくてつい喉の奥でくつくつと笑ってしまう。

「そうだな、いい時間だ、風呂に入ろう」
「え、あ、まって、ハーデス、さ」

 ぽんぽんとその頭を撫でてから、その体をゆっくりと腕の中から離してソファに深く腰掛けさせる。
 わざと耳元に唇を寄せてリップ音を一度落としてから、低く囁く。

「湯を張ってくるから…全てを見られる心の準備を、しておけ」

 小さく甘い響きを含んだ声をあげた光が、私を見上げたままソファの背にくたりと沈んだ。

――――――――――
2019.12.08.初出

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