深夜2時
腕の中に抱き込んだ熱がもぞりと動く感覚に意識を浮上させる。布団を跳ねあげないように腕の中から抜け出た熱を寝たふりをしたまま見送る。寝室のドアが開いて閉じて空気が揺らぐ。真っ直ぐトイレに向かったのかしばらくして水音がする。こちらに戻ってくる気配はない。
ゆっくりと体を起こして髪をかき上げてからベッドから降りる。
寝室から足音を立てないように廊下に出て、リビングのドアを開く。窓の外の夜景をじっと眺めていた光がこちらに気付いて顔を上げた。
ソファの背に掛けておいたひざ掛けを手に取り光の肩に掛けてやる。

「ぶり返すぞ」

彼は答えずに視線を落とし俯いてしまった。その顔を無理に上向かせても逆効果になるだろう。
地上の灯りが強すぎて、空の星は見えない。ぼんやりとした輪郭は境界を曖昧にしていく。
ガウンの裾の下から覗く膝頭が赤い。足先もぼんやりと赤みがある。

「布団に、戻りなさい」

私の問いかけに、彼は小さく首を振った。俯いたままの視線は窓の外を見続けている。
ひとつため息をついて、彼の膝を抱えるように抱き上げる。縦抱きのまま立ち上がれば、震えた光が不安定さに怯えるように私の首に縋りついてきた。さすがに恐怖の方が勝るのか、と笑いながら寝室へ戻る。
ベッドの上に下ろしてようやく人心地ついたのか光は細く息を吐きだした。その肩からひざ掛けをとって、足先を包む。光はそれをただぼんやりと見つめている。
数日の間に通り抜けて行った様々な事柄が部屋のあちらこちらに転がっているような、そのひとつひとつが少しずつ淀みを孕んでいく様な感覚。大人になってしまったが故に、そのひとつひとつを見なかったことにはできなくなっていく。

「週末に」

びくり、とされるがままだった光が跳ねた。

「…また来るそうだ」

シーツを強く握り込む音がした。そちらは見ずに冷えていたであろう足先にそっと触れる。まだ少し冷えていた足先が私の手の熱を奪っていく。

「…そう、ですか」

小さく呟いたその顔を横目で見る。簡易照明がわりのフットランプに照らされたその顔は、ぞっとするほど白かった。
しばらくの間その足先をマッサージして温めてから手を離す。折り畳んだ膝掛けを小さな椅子の上に置いて彼の横に座った。その体を横たわらせて掛け布団を持ち上げる。

「捕まえておけと、言われたよ」

私の言葉に、ぼんやりと彼が視線を寄せてきた。彼の横に体を倒しながら、ぽんぽんと胸元を叩いてやった。

「…もう、なにもないのに」

私から視線を外した光は小さく呟いた。瓦解した関係性のその先を探りきれないのか、その瞳が揺れる。

「なにもないということは、なんにでもなれるということではないかね」

同じである必要性はないのだ。光はゆるく首を振った。

「彼女のことは大切です。でも、もう、それだけなんです」

新たな関係性を構築する意思はないと、光はそう告げる。

「僕の役目は、終わりました」

光はそのまま瞳を閉じた。小さく細く呼吸音だけが響く。

《ハーデス、彼のあれは相当根深い。》

ヒュトロダエウスの言葉を思い出す。頑ななその横顔を眺める。
その額の髪をそっと横に払ってから手のひらでその体温を確認する。少し熱いがぶりかえしたという感じではなさそうだ。
されるがままの体が震えている。額から頬へ手を動かして優しく撫でる。

「光」

小さく身動いで薄く瞳を開く。色素の薄い瞳はこちらを見ない。

「好きだよ」

弱さにつけ込むようになるのは避けたかったけど、伝え続けないといけない気がした。

「君が、好きだよ」

光の瞳はこちらを見ない。頬を撫でる手を胸元に落として、布団の上からリズムを刻む。

「…僕は」

ただ天井だけをじっと見つめて光は小さく呟いた。

「僕が、嫌いです」

胸元のリズムを崩さないように叩き続ける。遠くを見たまま、光はぽつぽつと言葉を落とす。

「この目も、髪の色も、全部、嫌いです」

布団の中で、シーツをつかむ音がした。

「私は好きだがな」
「僕は嫌いです」
「私のことも嫌いかね」

問いかけに、瞳が揺れた。目の端に涙が浮かぶ。

「……っ」

何かを耐えるように、唇を噛む。どうせ君のことだ。嫌いだと言って離れようとしているのだろう?
その唇に指を添える。少しカサついた唇から熱い吐息が漏れる。そろそろと唇から力が抜けたのを見て、また胸元を叩く。

「…あなたを好きな、僕が嫌いです」

考え抜いた末の言葉は相手を傷付けまいとする優しさで包まれていた。それが心の内をも吐露していると気づかぬまま。
瞳の端から耐えきれなくなった雫がぽろりと溢れ落ちる。ぱたりと枕に落ちたそれが吸い込まれていく。
瞬きを繰り返すたびに零れ落ちる水滴がきらりきらりと輝きながら枕に吸い込まれていく。

「光」

その体を自分の胸元へ抱き寄せる。震える体を固くして、光は自分のガウンを強く掴んだ。腕を伸ばすことのできないその体をただ強く抱きしめる。

「それでも、君が好きだよ」

腕の中で震える君が、小さく息を吐くのがわかった。

+++

彼は優しい。
こんな僕に笑いかけてくれて。何も知らない綺麗で優しい人。
次はいつお店に来るのだろうか、それとももう来てくれないだろうか。
お店を開けるのが楽しくて辛かった。浮かれている自分を自覚していた。
名前を知って、名前を教えて、それだけで十分だったんだ。
低い声で名を呼ばれるたびに、胸が躍ったんだ。もっと呼ばれたいだなんて、欲張りを出さなければよかった。
一番奥の席でゆっくりと本を読む姿をずっと見ていたかった。

(でも、もう夢はおしまい)

瓦解した現実は酷く朧げで。まだ熱があるからだろうか、脳の片隅で冷えた目をした僕がそれを見据えている。

(どうして、愛されたいなどと思ってしまったの)

それに応えることもできやしないくせに、見据えた先に居るただ人の形をしただけの僕を見つめている。

(守るべきものも守れず、ただ汚れた体を差し出して満足するのか)

なんて傲慢なのだろう。そんなものを差し出そうだなんて。
僕は汚れている。振り払う事の出来なかった両の手は誰かに縋ることもできない。
朧げにしか知らなかった性行為を強要されたあの日から僕は汚れたままだ。
差し出された小さな手を覚えている。
あなたの妹よ、そう言われたそれがそうではないことを何より自分が一番よくわかっていた。
これは、僕の過ちだ。

(それでも守りたかったんだ)

小さなぬくもりが僕の手を離れていくまではせめてと、心に誓って。僕はただ君を守るためだけに存在していればよかったんだ。

(それすらできなかった)

あの家を出るまで、性行為の強要はなくならなかった。守るべき者が壁一枚向こうにいるのに何度も醜いそれに精を吐き出すことしかできなかった。
守らなければ、それしかなかった。

(そう、それだけを考えていればよかったのに)

人に混じって生きられないことを知っていたから小さなバーを開いて、そこに閉じこもった。
わずかな友が時折来ては去っていく、それだけでよかった。
眠れない体は少量のアルコールでごまかした。眠りは苦痛でしかなかった。

(でも、あの腕は暖かかった)

抱きとめられた腕を、その大きな胸を、僕は覚えている。忘れられるはずもない。
あんなに怖かった人の手が怖くなかった。そんなふうに思えたのは初めてだった。
だから、離れないといけないと思っていたのに。
名前を知って、離れられなくなった。
憧れの人だったから、じゃない。そんなものを飛び越えて、惹かれている自分に気付いてしまったから。

(おぞましい。この身は汚れきったままだというのに)

人の欲は際限ない。それを一番身近につぶさに見てきたのに、自分がそうなってしまうだなんて。
その目も、声も、手も、全部覚えている。ぬくもりのひとかけすら余すことなく。

(あぁ、あなたが好きです)

好きだから、もう離れないと。夢はおしまいなのだ。
ひとつの夢が音を立てて崩れて、全部、全部、崩れてしまった方がいい。

「光」

何度も名前を呼ばれる。僕がここにいることを確かめるように、ハーデスは僕の名前を呼ぶ。
ねぇ、汚いでしょう? どうしてその腕に抱きしめようとするの?

「君が好きだよ」

どうしてそんなひどいことを言うの? 僕は、僕がこんなにも嫌いなのに。今すぐ消してしまいたいのに。

(消してしまった方が、きっといい)

冷えていく心がぬくもりを拒絶する。
身動ぐほどに強く抱きしめるその腕から逃れられない。
好きだと告げるこの腕が怖い。縋りつきたくなる自分の欲が怖い。
自分の醜さを再確認させられたのに、その汚さを認識してなお欲の溢れるこの体が憎い。
あやすようにハーデスの手が僕の頭を撫でる。
ここにいたいと思わせないで。

「ここにいればいいじゃないか」

甘い言葉で惑わさないで。縋りたくなってしまう。居場所があると勘違いしてしまう。

「居場所にしてしまえ」

ハーデスの指が唇に触れる。

「漏れてるぞ」

見上げればとろりと優しく歪んだ金糸雀色の瞳が僕を見ていた。

「あぁ、でも、聞いてやると言ったものな」

唇に触れた指がそのまま頬を撫でる。優しい、優しくてあたたかい。

「話してごらん、言いたいことを」

頬を撫でた手はそのまま背中を撫でる。大きな手だ。

「…こわい」

絞り出せた言葉はそれだけだった。ぱたぱたと落ちる涙が止められない。

「うん」

ハーデスはただ背中を撫でてくれる。僕の言葉を聞こうと耳を傾けてくれている。

「僕、僕は、汚れて」

何を伝えたいのかもわからない。言いたいことがあったはずなのに、崩れた瓦礫の下から探し出すこともできない。

「守りたかった、それだけ、なのに」

秘密ごと全て、君が悲しまないように、1人で歩けるその日まで、ただ守りたかったのに。

「…守れなかった」
「…そうか」

ぐっと強く、抱き寄せられた。頬に当たる彼の服が涙を吸い取っていく。
泣いてばかりだ。弱みを見せてばかりだ。強くなければ何も守れないのに。押し殺していなければ人にすらなりきれないのに。

(でも、もう守るべきものもない)

ぽかりと穴が開いている。瓦解したその下に開いた穴を知っている。喪失感と呼ぶそれを僕は何度も目にしている。

「もう…なにも、ないんです」

呟いた言葉に現実を思い知る。守ろうとしていたものはその手で崩されて跡形もない。
自分の生きていた意味を失ったんだなと悟った。

「…何を、守りたかったんだろうな…」

必死に耐えて、必死に隠して、ただその笑顔が陰らないように、それだけを考えていたのに、その全てが暴かれて悟られていただなんて。

「守ったじゃないか」

落とされた言葉に顔を上げる。何度も頭を撫でるその大きな手があたたかい。

「守ったじゃないか、立派に」
「…でも、だって、知られて」
「知ってもなおちゃんと向き合ったじゃないか」

背中を撫でていた手が頬を撫でる。上向いた顔が今一度落ちないように、添えられた手はそれでも無理強いをする強さではなかった。

「君の妹は、正しい強さを持っていたじゃないか。ちゃんと前を向いて、君を見ていたじゃないか」

君が守ったんだ、ハーデスはそう重ねて告げた。見開いた瞳の下を親指でくすぐるように撫でられて目を細める。

「とはいえ、光も納得しきるのに時間がいるだろう。辛いなら、週末は来ないように言うこともできるが」

彼はどこまでも優しい。僕の目線で僕のことを見てくれる。

「…どうして」
「ん?」
「どうして、僕に…優しいんですか?」

問いかけには苦笑が下りてくる。抱きしめる腕の力が、少し強くなった。

「君が好きだからだよ」

あぁ、またわからなくなる。こんなに汚れた僕を好きだなんて。何の価値も持たない僕を好きだなんて。

「…うそ」
「嘘をついてどうする」
「じゃぁ、別の誰かだ」
「こんなに近くにいるのにか」

教え諭すように頭を撫でられて困惑は増していく。上向いたままの視線と視線が交わる。

「それとも、そんな軽率な男に見えたかね」

揶揄するような笑みに慌てて首を大きく振る。

「そんなことっ…そんなこと、ないです」
「そう思ってもらえてるならなによりだ」

あっ、と声を出す間もなく額に唇が下りてきた。確かめるように何度も口付けを落とされて身を固める。びくびくと震えればくすりと笑う音がする。

「怖いか」

どこまでも優しい声に震えながら首を横に振る。
ハーデスが怖いわけではない。湧き上がってくる自分の記憶が怖いのだ。ただ自分が汚らしいものだと思い知らされる、あの記憶が。
それでもこれをどう伝えるべきなのかがわからない。そもそも、伝えるべきなのかすらも。

「怖く、ないです」

今もひたひたと背後に迫る記憶の扉は怖い。なにがきっかけでそれが開くのか自分でも予測ができないのだ。それに抗う術も、今の僕にはない。
ハーデスの唇があやすように何度も額に、瞼に、落とされる。輪郭をなぞるように頬を撫でられてびくりと体が跳ねる。
優しく撫でる指が、首から背中を通って腰を抱く。抱き寄せられて流石に手を彼の体に当てて離そうとする。

「あ、あの、ハーデス、さん」
「なんだ」

その間も口付けは止まらない。額、瞼、鼻頭、頬、徐々に下がってくるそれに言葉を発することをためらっていく。

「だ、だめ、です…」

言葉を発すると同時に強く抱き寄せられ、思わず開いた膝の間にハーデスの足が滑り込む。そういえば、下着、履いた記憶がない。

「は、ハーデス、さんっ」
「んー?」

わかってる、この人わかっててやってる…!
片手でガウンの裾を引っ張って片手で彼を押すもどちらもびくともしない。ならば上に逃げようにも、近すぎる彼の顔がそこにはあるわけで。
こわくはない、こわくはないのだけれど。

「だめ、です…っ」

思わず、彼の口元を手で覆う。
きょとりとした彼には今僕がどんな風に映っているのだろうか。

「そうか、ダメか」
「ひゃっ、そこで、喋らないで…」

覆ったままの手を震わせるように喋られて情けない声が出る。べろりと掌を舐められて反射的に手を離してしまう。

「なら、このままで」

甘えるように髪に顔を埋めて擦り寄って来る様は大きな動物のようで。振りほどくこともできなくなり、ただガウンの裾を引っ張ることしかできない。
膝の間に潜り込んだままのハーデスの脚がすりすりと動きながら上がってくる。できれば、そこで、動かないで欲しい。
動くたびにびくりと跳ねる体を、流石に止めることはできない。くすぐったいし、恥ずかしいしで身体を硬くするしかない。

「ハーデス、さ」

呼びかけても、彼は頬を擦り寄せるだけで何も言わない。そういえば、髪も拭くだけで洗ってない。
急に恥ずかしくなってじたばたともがいてみるが、動けば動くほどハーデスの腕が強く抱きしめてくる。

「お風呂…お風呂入ってないから…っ」
「うん?」

そんなことか、と髪に顔を埋めたまま呟かれて首を竦める。遊ばれている、気がする。
上向かされた額に彼の額が重なる。

「…熱はないか」

確認するように呟かれてポンポンと腰を二度叩かれる。

「少し待っていろ」

あっけないほどするりとその大きな体が離れてベッドから出ていく。
急に離れた熱に体を震わせながら、ガウンの裾を引っ張る。戻ってくるまでに下着も履こうかと迷っている間に寝室のドアが開く。
掛け布団をめくって僕の体を起こしながら、ハーデスが耳元で低く囁く。

「一人で入れそうか?」

何の話だろう、そう思いながらも首を縦に振る。

「そうか、それは残念」

笑いながらベッドから立ち上がるように促される。大人しく従えば満足そうに微笑まれる。廊下に出て、響く水音で彼がお風呂を入れてくれているという事実を察する。
洗面所のドアを開いて促されるままついていく。
そういえば、熱で朦朧としていてちゃんと認識していなかったが、お風呂とトイレは別だし、そもそも部屋が広い。

「…どうした?」

ぽかんと見上げる僕に笑いながらハーデスが擦り寄ってくる。

「やっぱり一緒に入るか?」
「ひ、ひとりではいれます…っ」

からかわれているのはわかるのだが、からかい方がなんだかおかしい気もする。

「タオルはここ、着替えはこれ、シャンプーとかは使ってくれてかまわない」
「はい…」

ぽんぽんと頭を二度叩くように撫でられてから、その唇が耳元へと降りてくる。

「隅々まで、綺麗にしておいで」

告げて洗面所を出ていく背中を眺めながら、僕はその場にへたり込んだ。

+++

少し、性急すぎたのは認識している。
リビングのソファに腰かけてはぁと大きく息を吐きだす。
後悔しているわけではないが…原因の半分ぐらいはヒュトロダエウスがハッパをかけてきたせいだろう、ということにしておく。
もちろんそれだけではない。光の性格からして、一度考え込んでしまうと深みにはまっていく傾向があることはわかっていたから、気を逸らさせるという思惑もあった。
腕の中で小さく震えていた光を思い出す。小さくて、愛くるしい、庇護欲をそそられるその姿を。
同時に、自分の中に秘めていた欲が存外大きかったことに驚く。もっと抱きしめたい、キスをして、甘い言葉だけを囁いて、彼を蕩かせたい…。

(わりと、私も重症だな)

口元を覆って息を吐き出す。この欲は、さすがに光にぶつける訳にはいかない。彼は少なからず私を信頼してくれている。それを裏切るわけにはいかない。
リビングのドアが開く音と同時に、小さな光の声がする。

「あ、あの…」

振り向いて、思わず微笑む。
私の寝巻き代わりのシャツを着た姿は愛くるしかった。やはりサイズ差は抗えず、服に着られている感はあるが。ズボンも一緒に置いておいたはずだが、サイズが合わなかったのか履いていなかった。

「…髪、塗れてるじゃないか」

肩にかけたままのタオルにはしとしとと雫が落ちている。立ち上がりソファへ促すと光は大人しく従った。
ソファに座った彼の後ろに立ち、肩にかけたタオルでそっと髪の雫を拭っていく。

「じ、自分で…」

小さく震える様に笑いながらも手は止めない。こちらが止まらないことを理解しているのか、そうは言うものの手で制してくる様子はない。恥ずかしそうに肩を竦めるその姿は小動物のようでもある。
すっかり雫を拭ってから肩からバスタオルを外す。少しそのまま待つように告げて洗面所へ行き塗れたバスタオルと交換に普段使っているヘアオイルを持ってくる。適量を手に取ってから毛先に馴染ませれば光が不思議そうにこちらを見上げた。

「いいにおい」
「私が普段使ってるやつだが」

すん、と鼻を鳴らして香りを嗅いで、光がふわりと笑った。あぁ、やっぱり笑っている方がいい。
おしまい、と肩を叩いてから光の隣に座り、用意しておいた麦茶を手渡す。小さく感謝を述べてから、ゆっくりと嚥下する様を眺めていた。
ふぅ、と息を吐き出して真っ直ぐ窓の外を見つめる瞳には暗い影は見えなかった。
時刻は5時に近い。もう1時間もすれば朝日が昇るだろう。
窓の外を見つめるその横顔に触れる。頬を撫でればその目がこちらを向いた。
膝と膝が触れ合う距離まで体を寄せる。少しだけ震えた光の瞳は、それでも真っ直ぐ私を見ていた。見定めて、いるのだろうか。
頬を撫でて、首の後ろに手を添える。熱がぶり返している様子はない。
長い後ろ髪の毛先を指先にとってくるくると絡めれば、恥ずかしそうにその頬が赤く染まった。
迷う様に視線が彷徨って、私を見る。あぁ、その瞳の中に星が見える。

「ハーデス、さん」

小さく名前を呼ばれて、頬を撫でることで返答する。続きを促すように指を離せばまだ赤い頬のまま光が恥ずかしそうに微笑んだ。

「…ありがとう、ございます」

短い謝罪の言葉は、私の胸に温もりを届けてくる。半ば無理矢理連れてきて労わっていたことが無駄ではなかったのだなと胸を撫で下ろした。
近くで触れ合えるのは今だけかもしれないけれど…また元のバーのマスターと客の関係に戻ってしまうかもしれないけど、それでも、私は満ち足りていた。

(まぁ、その時はまた手を変えてアタックすればいいだけか)

その頬を撫でて横髪を耳の後ろに流してやる。くすぐったそうに首を竦めてそれでも光の瞳はこちらを見ている。
顎に手を添えて上向かせれば、瞳の中の星が揺れる。その手が自身の服の裾を小さく掴んだ。
耳に唇を添えてリップ音をさせる。びくりと跳ねた体はそれでも拒絶しない。
その瞳の星を覗き込んで微笑めば、彼の手がそっと私のシャツの裾に触れた。

「…好きだよ」

呟くように落とした私の言葉に、光は二度瞬きをして、そっと星を閉じ込めるように瞳を閉じた。
確かめるように何度も、私は光の唇に唇を重ねた。
朝の気配だけが、部屋に満ち始めていた。

――――――――――
2019.12.05.初出

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