アガペー 無償の愛 何よりも優遇される愛
あぁ、あの強く儚く美しいものを形容するのにこれ以上に相応しい言葉があるのであろうか
何度地に落ちても、なんど膝をついても、何度挫けようとも
ただ人のために立ち上がり、ただ人のために前を向き、ただ人のためにその愛を貫いた
我々に道を示し我々を導いてくれたそれを、他になんと形容すればいいのだろうか
白い陶器のような肌に、どこか愁いを帯びた白い瞳、靡く白い髪は小さな光も漏らさぬように反射しキラキラと輝いていた。
人の持つ罪を喰らい、人を喰らうその獣を、人々は恐れをこめて「罪喰い」と呼んでいた。
今目の前に在るそれはまさに罪喰い…しかも大罪喰いと呼ばれる力の強い獣だった。
それはただ目の前に揺蕩っていた。どこまでも眩い輝きを放つ「光」をその小さな身に宿して、その獣は、見知った英雄の顔で静かにほほ笑んでいた。
英雄の出奔に誰も気づかず止められなかった。
いつの間に居なくなったのか、ペンダント居住区の彼女の自室は、小さな光のシミを床に沁みつけてはいたものの人の使った痕跡がなかった。開け放たれた窓から光に覆われた空が煌々と部屋の中を照らしていた。
クリスタリウムの所々で彼女を見たという話は聞けた。だが、肝心の何処から何処へ行ったのかという部分に関しては誰もわからないままだった。
暗い暗い海の底でもその光は陰りもしなかった。
揺蕩う水面はすでに遠くただゆらゆらと穏やかに揺れていた。見上げ、手を伸ばしても、もうそこに手は届くことはない。
その奥底に光はあった。
「あぁ…厭だ厭だ。たしかに私は来いと言ったが…なりそこないのまま来られても困るのだがな」
巨大な建造物、明かりが灯ったその街並みの真ん中にその光はあった。
見下ろす形でそれを一瞥すると、エメトセルクはゆったりとした動きでその光に近づいた。
「…折角私の舞台を設えたのに、お前の光で何もかもが台無しだ。」
その光の真ん中にいる人物にしゃがんで視線を合わせながらエメトセルクは口の端を歪ませた。胸を抑え肩で息をし押し殺したうめき声を漏らしながらその光はエメトセルクを見据えた。
「だがまぁ…たった一人できちんと来れたのは高評価だぞ…見直した」
その光の真ん中に手を差し出す。
「さぁ、選択の時だ。私の手を取るか、私の手を払うのか、選びたまえ」
どちらに転ぼうともエメトセルクに害は無い。計画が早まるか遅まるかその小さな差でしか無い。
…薄れかける意識の中、手を伸ばしたような気がした。
エメトセルクは言う。
ヴァウスリーやティターニアのように心が強いモノは自我を残したまま大罪喰いとなることもある、と。
お前はどちらだろうなと笑うその男の前で、抑えきれず溢れる光が彼女を変質させていく。
金切り声のような叫びをあげながら彼女は彼女から解き放たれようとしている。
熱い、燃えるようだ。それなのに冷えた空気の音がする。光で、前が見えない。
前が、後ろが、わからない。なにも、見えなくて。
弾けるような強い輝きの後、白き獣、新しい大罪喰いはそこに在った。
どこかゆったりとした動きで整えられた石畳の上に降り立ったその獣は、ゆっくりと瞳を開いた。
「…おはよう、英雄」
エメトセルクはそう告げると恭しげに一礼した。
「…えいゆうでは、ないわ」
白く変質した瞳を翳らせて、彼女は小さく自らの肩を抱いた。陶器のように白く変質した肌に海の青が反射した。
「ひとに、害をなすものを、ひとは、えいゆうなんて、呼ばない」
白き獣はこの仄暗いそこで在っても光を湛えていた。
「…お前は害をなすのか？」
問いかけに、その肩がピクリと揺れる。伏せていた瞳がエメトセルクを見やる。 その瞳はこんな海の底でもわかるほど瞳に涙を溜めていた。
「…わたしは、だれも、傷つけたく、なかった」
英雄と呼ばれ、戦いの最前線へ立たされる。向かいくる相手の正義に自身の正義をぶつける。最期に立っていた者が歴史を作る。英雄とはすなわち使い潰しのきくコマである。果たしてそれは名誉なことなのだろうか？
エメトセルクはぼんやりと英雄を…彼女を誤解していたと思い至る。彼女は英雄と呼ばれることを望んでいない。
「わたしは、ひとでは、ない。わたしは、えいゆうでは、ない」
与えられた役割を、与えられた舞台の上で、踊り続けることを強要され。やっと逃れた別の世界でもやはり英雄と呼ばれ。
何度も違うと叫んだのだろう。幾度そこから逃げ出したいと思っただろう。
「…もう、だれも、傷つけたく、ない」
その瞳から溢れた涙が、彼女を取り巻く海と混ざり合い泡となった。キラキラと反射して消えていくそれを誰も気には止めない。
大罪喰いと化したからだろうか。言葉が溢れるのに言葉が紡げない。伝えたいことがあったのに、それが光に覆われて見えなくなる。
かぶりを振れば白く変質した髪がしゃらしゃらと揺れる。
「…本質は、変わらないのだな」
唇の端を歪ませながらエメトセルクは言う。彼女を英雄と呼ばせた彼女自身の本質。どこまでも他者を重んじ世界を愛した少女。誰も傷つけたくないと望みながら、持ち得てしまった力で誰かに…世界に仇なす存在。
「ならば名乗るがいい。お前は今日から、アガペーだ」
無償の愛、何者にも優劣をつけず全てに平等に与えられるもの。
エメトセルクはその獣をそう呼んだ。
――――――――――
2019.07.30.初出